シュウ [ 4 Jun 1999 00:16:22 ]
ああ本当に申し訳ない。随分と時間をアけてしまった。
理由をイチイチ並べてみても毎日更新されている後悔日誌でその説得力は半減、いやそれ以上、んん、消滅してしまうだろうからウダウダ言わん。
いや、一点ダケ。
実はもう光は見えているのだ。で、どうして光の射す方へ進むコトを躊躇したのか、というと、オレとさいかが、今、長いトンネルに居たとして、その光が果して「出口」なのか「対向車両のヘッドライト」なのかの判断が捕めなかったんだ。
確かにその判断にカカる時間は、オレとさいかの物理的距離で削減出来ただろう。鍋倶楽部部室で逢って、ネタを煮詰めれたり出来れば、もっと早くに「じゃ、そうしようよ」という話になったと思うんだ。
けど、ネット上という特質もまた加味したい、と思うようになってきた。果して言霊は
TCP/IP のプロトコルの名のもとに、飛ぶのか、とかな。
やっと今日、ナンとか「それが出口であって晴れて脱出出来ようが、対向車両であって正面衝突で不慮の事故になろうが、エエワイぃッ」と思えたので、ナニモナカッタカノゴトク、話をススめる。
「甘えと自由」という、一見相対性の無い言葉を、巧く対峙させるのは本当に難しい。というのも、「勧善懲悪」も「幸か不幸か」も「一日一善」も、トニカク、ありとあらゆる倫理的観念はこの「甘えと自由」の中に混在するからだ。
勧善も結局は(社会に一過的に認識されているモノサシにおいて)善いとされる行為を推奨するコトで、その自分の住んでいる社会から迫害を受けないようにする、極めて「甘い」行為かもしれないし、逆に、自分が住んでいる社会に与える特定の影響は、その社会に住む自分自身へも影響を与えカねないという恐怖心を肯定して懲悪の行為へ趣くのは、法治国家に生きる我々の「自由」。そして、逆もまた真なり。
内包し合う、といったのは、そういう意味。
だからといって、ケース・バイ・ケースで、と言ってしまうと、全てを一般化してしまい、議論の余地が無くなってしまうから、使いたくなかった。そこで
葛藤
という言葉が出て来たんだ。
果たして自分の今の姿は正しいのか。正しくなかったとしても、自分の中にナンの違和感も無いか。違和感があったとしてもその姿を継続させたいと強く願う気持ちはあるか。ないか。カ、バカリカ。←持ちネタですまん。
そういう葛藤に対して、ドレだけ自分自身が素直に自然にアプローチできるか、が自由であり甘えであると思う。TRUTH!で言う、
ひとりで立とうとするこちらと、ひとりで立とうとするそちらが重なったとき、まれに訪れる"ひとつである"実感がほしい。
という、一見相反する気持ちは即ち葛藤に対するアプローチであり、
安心して俺の心に触れさせられる心。
安心して俺が触れられる心。
への飽く無きアプローチであると思う。少なくともオレは本家と不思議なグライ連動している。
少し今迄の経緯を違うコトバでまとめてみようか。
人が人として生きてゆく上で、どうしても、その人が住む社会に対して自分の存在を説明する義務が生じるコトがある。説明の出来ない存在は、社会にとっては不安要素以外のナニモノでもないからだ。
だから人は「浮気」だとか「不倫」だとか「彼氏」だとか「彼女」だとか「嫁」だとか「夫」だとかの看板/名札でその関係を位置付けようとするんだと思う。
コンセプトが重複するかもしれないが、オレは「名札」は言霊の脱殻だと思っている。もうそれ自体には何の意味も無いのだ。そういう意味で、そうやって自分と他者との関係を、そのまた他者に説明する為に使う「浮気」や「本気」は、あくまでも名札に過ぎないのだと思う。
つまり、そうやって説明する為のワカリヤスイ手法としての「浮気と本気」の基準を排除したかった。TRUTH!で言うトコロの「数」であり、「自分の都合」であり、そして、「自然体でふるまえないコト」であり、「排泄の為だけの射精/自慰行為」を取り除くのは、核心を求めるのにとても必要だった。
その経過で出てきた「生殖行為」についても。
生殖行為=種の保存、と直接的に捉えて、じゃあホモセクシュアルはどうなるんだ、という意見も出てしまった。オレは正直シマった、と思ったな。
オレが言いたかったのは、確かに、結果としては種の保存に成り得るけど、本当に言いたかったのは「カニバリズム」に代表されるような、相手を自分の中に取り込むような行為なんだ。そう、排泄行為とはマッタク逆の、摂取行為。
強く想えば想う程、もっと近くに近くにと居たいと思うだろう。神への信仰と動物への帰依を同列に並べたのは、そういう意味がある。どちらもその気持ちをドライヴするのは「近くに居たい」と思う気持ちなんだ。
自分の持つ倫理観念の基に、そうやって想い焦がれる相手を摂取したいと願うエロス。そして、その相手が壊れてしまってはヒイては自分への損益にもカカワってしまう、トカではなく、本当に素直に自分が切望する形の有無にカカワらず相手のソノ存在を強く願うアガペー。
そして。
自分独りだけがこの社会に生きているワケではない。自分が想い焦がれる相方についても然り、だ。その(近くに居たいと思う気持ちとソノヒトナリであって欲しいと思う気持ちの)存在達へ、果して自分はどうアプローチするベキか。一生涯を通してツラヌかなくても良い。一過性のものでも良い。でも、その瞬間瞬間のソノ気持を、自分でドノヨウニ処理しているのか。
葛藤しているのか。
別に「マヅは疑え」と言っているワケではない。逆に「ヒラきナオれ」と言っているのでもない。その気持ちを自分がキチンと「浮気と本気」の狭間で、時には「甘え」てツカれてハナれられてみたり、時には「自由」にツいたりハナれたりしながら、葛藤してゆく。それコソが大事なんだ。
そうやって心身共に自分へと自分の(質量とは関係無く)「全て」を捧げるコトで、ヒいては相手へをも自分の全てを捧げるココロ、それが真実なんだ。結果として相手を傷つけようが暖めようが。
うん。その行為へのキッカケをくれるのが「?」。「?」が浮かぶ時点で、自分自身は既に、他人の目から見て何割方とかいう測量の度合とは全然別のトコロで、全てを捧げる準備が出来てるんだ。
その「?」をキッカケにした葛藤。それは本気以外のナニモノでもない。
さて、さいか、書きたいことは書き尽くした。そろそろ閉幕の支度をしないか?
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