Magic meets magic


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 次章以降に書いていく事になるのだが、実は斎木創というマジシャンは演技者としての功績が乏しい。実際には乏しいというのはおこがましいのだが、当時から同じように活動していた仲間に比べると現在においての私は一歩や二歩・・・どころではない、富士山の五合目と七合目くらい・・・とにかくかなり引き離されてしまっているような気がする。これは周りからの意見などよりも私自身が受ける印象と言ったほうがいい。

 では、どうして演技者としての成果が残っていないのかと考えると、それは膨大な数の要因が出てきてしまい一概にこれのせいとは言えないのが、なんとももどかしい話なのだ。実際には本人の勉強不足やひとつのスタイルに固執した割には、その演技がまだまだ熟練されていない事や、演技の成熟度が低い事等々分かっている事もあるのだが・・・この話はまた機会があれば語っていこう。

 後にEMCの主催したコンベンション等を気に私自身のマジシャンとしての活動は活性化されていくのだが、それ以上に私がマジシャンとして残した功績が今なお多くの人に影響を与えているものがある。それは、何を隠そうレクチャーノートである。

 私の師匠であり、当時のマジックショップ・ウイザードインのメインブレインでもある柳田氏というのは基本的に脳みそを理解するのが容易じゃない。いや、理解できないと言い切ってしまっても構わないだろう。それは随所で見られる、例えばマジック製品に関して考えてみる。

 マジックショップの大手メーカーといえば株式会社テンヨーだが、テンヨーは年間を通じてアイテムの新発売というのは、まったくの新製品やリメイクしての再発売、海外からの輸入商品の日本語化等を合わせて大体20アイテム前後というところである。実際にはこれよりも多いかもしれないが、少なくとも日々チェックしに行っている私の印象としてはその程度という事だ。

 私がウイザードインでレクチャーノートの説明文を担当し始めた翌年。柳田氏は年間を通じて100個のマジックを考案して発売した。これは単純にマジックが100通りではなく、100種類のマジックアイテムという事。このアイテムの中にはレクチャーノートを数多く含んでいた。レクチャーノートは一冊に対して少なくても3つ以上のマジックが掲載されている。つまり、実際には100個の製品というのは100以上のマジックを考案していなければ不可能な事なのである。単純計算でも大体3日で1個ペースである。週刊誌連載の漫画家並みの高回転率だな、と今思えば凄い話だとしみじみ思う。

こんな事もあった。

ある日、いつものようにウイザードインに出社すると、嬉しそうに柳田氏が待っていた。手元にはゴールデンナゲット(だったと思うけど)を持ち、テーブルには様々なものが散乱する中でクロースアップマットを敷く場所だけが確保され、そこはまるで神聖な領域のように・・・
「今日は、一日で何個マジック作れるかに挑戦するから」
それは、「今日の夕飯はカレーだから」くらい至極当然の事をさらりと言うようなそんな按配だった事は今でも覚えている。実際に、一日に作品として発表できる作品を幾つも作るというのは容易ではない。それは考案するスピードと同時にクリエイトされた作品が商品として並べられるだけのクオリティを要するから、当然といえば当然かもしれない。

結果として、柳田氏はその一日の間に10のマジックを作成した。具体的な内容は覚えていないがカードマジックあり、コインマジックあり、アイテムありとその内容はバラエティに富んでいた事は記憶している。

実際の当日の柳田氏は、ほぼいつもと同じ感じだった。事務所にいて来た客と話しながらファミコンでしばし遊んだり、かと思うとテーブルに向かってカードを触っている。別に何かを模索するようにカードをいじるのではなく、どちrかというといつも通りの動きだった。クラシックパスを繰り返し行ったり、ただ、そんな感じに。

時折、「ん!できた」と言葉を発する。その言葉に反応して、私は仕事を止めて柳田氏の演技を見るわけである。氏にとって完成した演技は一回行う事で内容が脳みそから消去されているようで、まあ実際にはそうでもしないと一日に何個もマジックの作品は完成しない。

むしろ大変なのは周りのスタッフの方だった。完成して演技をすれば忘れてしまう柳田氏の代わりに、その演技を一度で記憶してしまわなければいけない。それは手順もそうだし、台詞も何もかもである。まったく新しい技術以外はこれといった説明はすべて省かれるのだから、スタッフの尋常ならざる苦労は理解できるだろう。

結果として・・・記憶違いが無ければだが・・・柳田氏が一日で作った10個の作品は、翌日一日の終わりにはすべて説明書が完成していた記憶がある。いわば、柳田氏が「一日で10のマジックを考えた男」であるならば、私は「一日で10のマジックの解説を記した男」として後世に称えられてもいいかもしれない。

まあ、いまでも思うが、二度とあっては欲しくない話ではある。


こんな信じられないような事が多々ありながら、私自身はウイザードインでのアイテムやレクチャーノートの解説書を書くという業務を足掛け3年以上続けた。後にウイザードインから離れるまでに解説し、世に発売されたアイテムはおそらく100ではきかないだろう。数を数えたいところだが当時の資料はほとんど無くなっており実際に数える事は非常に困難な状態なのが残念でならない。

マジックショップとしての業務がメインであった当時を知る人に分かるように書くならば、UNBELIEVABLEシリーズの3作目以降に発売された作品の7割程度が私が書いた説明という事になる。今現在は廃盤とはなっているが名作として名高い「FINAL EFFECT」や「宝島」なども私の解説によるものである。今こうして考えれば若輩の私にそういう解説をまかせてくれた柳田氏には感謝する部分が大きい。

この解説を書くという仕事は前にも書いたように私自身の成長に大きく影響すると共に、その結果として恩恵を得る事が出来た。

影響とはマジックそのものに対してだった。

当時の私は技術的にはまだまだ半人前以下であり、演技も稚拙なものだった。実際に技術もロクに身に付けていないのに演技がどうこういう話でもないのだが、当時の私の演技を思い返してみるとなかなか赤面モノだったと思う。

そんな中、解説を書くという作業は私の技術に大きな地盤を作ってくれた。解説を書くということはその技術を理解し、なおかつそれを知らない人に簡単明瞭に伝えられる言葉にしなければならない。つまり、書くためには自分がその技術を理解して、その工程で文字で伝えるために一番適切な方法を模索していくのである。それはすなわち、解説を書けば書くほど、多くの技術を自動的に身につけていく事に繋がったのだ。

しかし、技術を身に付けるためには何度も繰り返して行わなければいけないのは当然の事で、たかが解説を書くために一度や二度行って書いていたのでは、当然技術は身につかない。正確に言うと一度や二度の付け焼刃の技術は解説したところで正しい言葉にはならないのである。私自身はその点を自分が書いた文章を客観的に読むことで理解していた。だから、時間の許す限り技術は反復して行って解説を書けるレベルまで持っていく努力をしたのである。

普通、技術の反復練習とはその技術を身につけるために行うべきもののはずなのだが、私の場合は解説を書くためという点が前面にあった。技術力の向上はあくまでも後からついてきた副産物に過ぎなかった。だから自分が解説を書くのが上手くなった、というか楽になった時、演技をしている自分の技術力が安定している事に気が付いたときは、かなり驚いたものである。

私の、高校二年からという比較的短いマジック歴において技術力が同時期から始めた他者よりも成長するスピードが早かったのは偏に解説を書くという仕事のおかげだったのだろう。


恩恵とはクリエイティブな面だった。

解説を書くという作業は柳田氏から与えられる膨大な情報との勝負でもある。氏の考えたマジックを以下に遜色なくそのまま読者に伝える事が出来るかという勝負であり、それは単なる右から左への流れ作業とはいかない。先ほども書いたように以下に理解しやすい文章にするかという事が行われている。

しかし、文章を読みやすくする以上にきついのは、氏の考案したマジックをそのまま送り出す事だった。自分の中に蓄えられた知識が増えれば増えるほど、この作業は辛くなっていく。その理由というのは自我、とでもいうのだろうか。氏の考えたマジックの手順やアイテムそのものに自分の考えを加えたくなるのである。

これは、実際に書いてしまうという衝動ではなく、フラストレーションが沈殿する感じである。与えられた作品を見る事でクリエイティブな面が刺激されるが、その捌け口が無い状態である。これは予想外に辛かった。解説を始めた当初にはまったくなかった事である。

このフラストレーションの沈殿は、後にクリエイター「PSYKA」を生むことになる。

解説を続ける中で、私は同時にクリエイターとしての活動を模索し始め、幾つかの作品を考える事になる。自分の好き嫌いもあってその大半はカードマジックであり、特に4枚のキングと4枚のエースを用いたマジックを多く考えていく。

この作品がある程度たまった頃、柳田氏以外のマジシャンやウイザードインの顧客でマジックを考えたが発表する場所がないというメンバーでオムニバス形式のレクチャーノートを出す事になった。「WIZARD' NIGHT」と題したレクチャーノートは、当時行われ始めたマジックライブと同名で、多くのマジシャンが参加するという同意点から名づけられた。

私は、このノートに斎木創ではなくPSYKA(さいか)として作品を発表、その少し前に初めてのレクチャーノート「ヘイザンフェローの伝説」を発表した。


PSYKAとは、解説者としての斎木創が貯めたクリエイティブな点でのフラストレーションの捌け口として作ったマジシャンの名前だった。後に私はこの名前をマジシャンとしての名前としていくのだが、当時は別の人として扱っていたのである。

「ヘイザンフェローの伝説」は内容が評価されたのか、無名のマジシャンの作品としては高い評価を受け、多くの愛好家に読まれる事になった。今現在活動しているマジシャンの中にも、この作品がきっかけになってマジックにのめりこんでいったという人もいるのである。そして私自身はこの作品以降、現在にいたるまでに6冊のレクチャーノートを発売している。また「Go-on」というアイテムも考案しこれも愛好家に高い評価を受けた。

アンビリから始まった解説者としての道のりは、私にマジシャンとして必要な地盤と、マジシャンとしての結果の一つであるレクチャーノートの発売という思いもかけない幸運を手に入れさせてくれたのである。

この事実こそ、まさしくアンビリーバブル(信じられない)事だと、今でもそう思うだが、これが偶然なのか、それとも氏によって作られた私の道だったのか、

知っているのは、あの時「始めてのマジックの解説書だから上手くはいかないだろうが、まず書いてみなさい」そう言った柳田氏だけなのである・・・

続く・・・


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