匠の技というのは、仮にその分野に対する知識がまったくなかったとしても、その技の素晴らしさにみとれてしまったり、ほうっと溜息一つもらすだけの洗練された何かが含まれているものである。
例えば、陶芸家のロクロを廻して器の形を作り出す作業や、ガラス職人の溶けたガラスを金属の長いストローのようなもので膨らます作業など。それがどんなに難しいかどうかよりも、そこで起きる事実の美しさ、無い場所から新しい何かが想像される、それは一種のマジックのようなものといえるだろう。
芸術家における、それも凄いものの、例えば料理のプロが織り成す動作もまた惚れ惚れするものである。遠い場所で言えば、高級レストランの総料理長が織り成す盛り付けの美学、手近なところで言えば、繁盛している定食屋でフライパンに洒落にならない程の野菜をいれてもしっかりとフライパンを返して野菜を循環させていく・・・どれもこれも見ていて「凄いなあ」と感嘆してしまうものだ。
マジシャンも何処かのラインを踏み越えると、それはもうこういった匠の技と勝るとも劣らない感嘆の領域へと突入する。それはマジックという不思議を見せるという大前提とはまったく別の場所で生まれるものだ。陶芸家がロクロを廻すのは動きの美しさを見せるのではなく、器を作るのが目的なのと同じように。
秋元氏の演技において、私は同じような感嘆を得ていた。特にステージマジックにおいて彼の計算された緻密な動きは礼賛に値する美しさと思われる。はじめて彼のステージの演技を見たのはたしかビデオだったような気がする。私がウイザードインに来るようになる前の随分古い話だ。どこかの会場で大会を開いていた時だろう。ビデオテープは何度も見られたせいか、それとも撮影者の知識不足か、荒れていたり露出オーバーで顔も衣装も全部飛んでしまってとても見れない状態だったが動きだけはわかる。そんな感じであった。とにかくビデオの質が悪い。今から考えてみると、そんなビデオを最初から最後まで良く見たなあと自分に関心する事しきりだが、その中でも印象に残ったのが秋元氏の演技だった。
それはマジシャンとしてのマジックが印象に残ったというよりは、体の動き。もっぱら手から腕にかけたラインの動きに感嘆したとも言えるかもしれない。後にその演技を生で見たときは今度は現象も加味して感動したものだが。
話がそれるが緒川集人のそれも、また匠の技である。同じように見るものに感嘆を与えるのである。しかし、この二つには似て非なるものであり、言わば「陰」と「陽」とも言える。やはり求められるのは緒川氏のそれであるのだろう。秋元氏のステージの良さと緒川氏のステージの良さは、それは山と海のどちらが好きですか?に限りなく近いのだが、完全な両極端ではないのだ。秋元氏が緒川氏のよさを取り入れる事も、またその逆も可能な。そういう物といえると思う。お互いがお互いのそれに気づくのならば二人の演技はどこまで進化するのだろう?と考えるのはおせっかいな話で、当の二人はとっくに気づいているのかもしれない。
いやはや、気づくべきは私か
私にとって感動したり、影響を受けたステージマジシャンの名前を上げるとするならば、まっさきに名前が挙がるのが秋元正と緒川集人である。他には数える程度しかいない。
20歳頃の話だったろうか、 当時の私は、今でも変わらないのだがクロースアップマジックを主体としたマジシャンであった。そのくせステージマジックには興味をもっていて、自宅のビデオライブラリーにも色んなステージマジックの演技が収められていた。
当時、秋元氏と共に仕事をする機会も多く、彼のステージマジックを見ていた私は・・・たしかリングと四つ玉の演技である・・・折に触れ、秋元氏から手順を少しずつ聞きだしていた覚えがある。当時、私は唯一の休みである月曜日を利用して、少しでもお金になるようにと営業活動をしていた。まあ下手な時分なのでギャラに関しては文句は言わず。とにかく一箇所でも多くで、一回でも多くの演技をして経験をつみたかったのである。
実際に営業をしていくと、ステージというかサロン的な要素を含んだマジックというのが不可欠になっていく。広い店内のお客さんが一緒に見れるようなマジックだ。今になってみれば、普通の店ならばクロースアップマジックでも充分に満足させる演技をする事ができるものだが、当時の私にはそれだけの力量がなかった。
そんな時に活躍したのが、秋元氏の演技だった。私は当時の営業で秋元氏のリングと四つ球の演技をほぼ寸分たがわず演じていたのだ。まあ、もう時効という事にしてもらおう。いくら寸分違わずといえど、体系に違いありで、決して綺麗なものではなかったと思う。ましてや、生来、いきあったりばったりな性格もあり、計算された動きというものは不得手だった。とにかく歴史の年号を覚えるように何がどうというのを考えず全ての動きを覚えて演技をしていた。
しいて当時の失敗をあげるならその時に使う曲までもが同じだったということか。
性格を考えると、私と秋元氏は決して交わる事の無い水と油のようなものだと思う。キャラクター的に考えると、秋元氏が「水」で私が「油」だから、油と水か。しかし、油と水は交わる事のない変わりに接点を有して共存する事ができるのである。油は同じ空間、例えばコップの中にある限り常に水に対してのっかっている状態。つまり接点を持ちつづけるわけである。そしてその接点は綺麗な線のように見えるものの、やはり極微量な融合を成しえているのだろう。
今でも秋元氏と話していて、「どうしてこの人と、こうして話たり仲良くしているのだろう?」と首をかしげる事もあるのだが(失礼)少なくとも私のマジックを語る上で外す事の出来ない、そして今後も受けつづける影響を考えれば失う事の出来ないマジシャン、それが秋元氏なのだと考えてしまう。
それでも「水」と「油」と思ってしまうのは私の心根が曲がっているからか。