水 18 12月 2002
引き続き、技術に関して。
よくマジック関係の人に限らず、それ系(なんじゃそら)と話していると、技術はベースであって、それが全てではない、という話になる。まったくもってご高説のとおりではあるが、技術アリキの演技ではなかろうか、と考える。技術が物凄くても、つまらないマジシャンなんて腐るほどいるだろう。演技とかキャラクターで押し切って、技術が水準以下のマジシャンも腐るほどいるような気がするが。
では水準レベルの技術といは一体なんぞや、という話になるのだが、これは個人レベルの解釈に他ならない。しいていえば「演技上、技術の欠点(失敗)が露呈しないレベル」という表現にとどまるが、これにしたって、どこが線引きなのかは、「まあ、このくらいできれば使えるだろう」という個人のマジシャンごとの判断に委ねられる。
同じ技術でも、マジックの経験者と未経験者では、技術の許容範囲が異なる。なまじ知っているだけに気になる部分は当然多くなるわけだ。ボーリングの試合などを見ていても、投げた瞬間に「ああ、ちょっとズレてますねえ」とか解説がのたまうのだが、結果はストライク。素人目にはズレてるのもわからないし、結果も違わないのだから、いいじゃないかと思ったりもする。
良く私なんかが人の演技を批評する場合は、技術とそうではない部分に分けて評価するケースが多い。演技はいいんだが、技術の未熟さ故に演技のテンポを壊しているなどの表現は、演技自体を否定している訳ではなく、それに伴った技術の練習が足りないので、それをすればもっとまとまった演技になるという事だ。
さて、その技術だが、技術の習得仮定はいくつかの段階を踏んでいると考えられる。
まず、習得だ。
習得とは、必要な技法の動きを人通り行える状態を指すのだろう。これまでを習得のための練習と仮定する。エルムズレイカウントにしても、上手い人のと比べると多少ぎこちないものの、現象は起きている。このレベルへ達するまでを習得としよう。
習得した技術は、今度は普通に使えるような技術にするために反復練習を行う。ここを通常はより美しくするための時間だから、研磨とすべきなのだが、私はあえて維持と仮定しておく。
最後に維持され安定化した技術をさらにワンステップあげるために研究を重ね、より完成形もしくは未来形へと発展させる時期。これを研磨とする。
私は技術の習得レベルは、急激な上方曲線から、停滞時期を越え、再び上昇曲線に入ると考えている。それらの曲線は維持期間においては、一定の割合で技術レベルは落ちていくと思われる。しかし日々の練習を怠らない事によってその落ち幅を0以下に抑えることができると思うのである。
日々の練習というのは、ルーティンの練習、日々の演技(観客を前に)、技術の練習によって支えられる。挙げた3つは後者の方が維持率が高い。
1年365日、毎日決められた演技をするマジシャンがいるとすれば、彼らは日々必要な技術レベルを維持するにとどまるため、曲線は限りなく水平に近い上昇曲線を描くと思われる。
当然、技術の練習をするほうが高い上昇曲線を描くのだが、前者のソレとの差は意識ではないかと考えている。今使用している技術を否定するわけではないが、その技術がその状態が完成した形であると捉えるかどうかで、それはさらなる磨きをかけることができるのではないだろうか。
手が動かせるだけではなく、その技術がどのように考えられ、どのような理論によって支えられているかを考えることで、技術は1つの形で多様性を持ち始める。同じ技術でも組み込まれるルーティンや与えられた演技環境において、その最善の形に、手の形、タイミング、テンポなどが変化できるようになると思っている。
私は、得た技術の研磨は終わりがないものと考えている。それは先達のマジシャンによって考案された技法が、その時代における完成形であり、それが未来永劫そのままであることはマジックにおける技術が「技術」という名称である限り避けられないものであると考えているからだ。
すでにある技術を認めつつ、その延長線上にあるやもしれぬ技術の進化に私たちは否定してはいけないと思う。結果として、今ある技術を極限まで高めることも、私は与えられた現代のマジシャンの責務であると思うし、そうすることで、次代へとつなぐ事ができるのではなかろうか。