木 23 1月 2003
先日、2ちゃんねるの趣味一般板におけるマジック・手品・奇術関係のスレでのオフ会に参加した。参加者は11名。うち、これまでに何処かでお会いした事のあるかた5名。自分以外が10名だから半数は何処かでお会いしたいることになる。ちなみに私のレクチャーノートをお持ちの方が4名。これまたお約束といえばお約束か。あんな難しいレクチャーノートを良く買う気になるものだ、と人事のように感心する。
その飲み会で、某氏が「シャトルパス」を見せて欲しいという話になった。そこで、これまた某氏が、シャトルパスを実際に行ったのだが、これがなんとも妙な感じだ。話を聞いてみると某コインマジック辞典を見て覚えた、という。これ以外の参考資料はなかったらしい。
それを見て、これまた違う某氏がシャトルパスを行った。これは明らかに某デビットロスチックなムーブである。正調シャトルパスというか、使えるシチュエーションが限定されまくりなシャトルパスというか、いやいや、もともとシャトルパスは使うべき場所が決められがちな動きではあったりするが。
で、ふと思う。
私も自分のレクチャーノートを含め、数多くの解説書を書かせてもらっているが、このマジックの解説というのは非常に難解である。まだまだ教則ビデオが普及しはじめる前後の時代、マジックを覚えるのはすべて本が主流だった時代のお話である。
マジックの手順の説明は対外のものは技法名を用いることでスムーズに説明するという逃げを多くの教本は行っている。しかしいくつかのマイナーな技法(これもまた、解説者によってマイナーメジャーの区別が曖昧で読者は苦労していたに違いないと思うのだが)は説明をしなければならない。この技法の説明というのが非常にやっかいなのである。
某コインマジック辞典をどうしても例に挙げてしまうのだが、私はコインマジックの大半を人から教わったり、海外のビデオを通じて覚えている。原則的にプロもしくはそれに近い人から教わっているのだが、世の中の大半はそうではない人が多い。つまり、その技法を最初に知り、そのやり方が書かれている本をベースに覚えるのだ。
その本にしても、これまた読者の読解力によってその技法の捉え方が異なる。けっかとして、同じ技法名なのにまったく違った動きが生まれたりするのである。
ここ数年において、その人による技法の差を感じるのが、シャトルパスとエルムズレイカウント(エルムスリーカウント)などが顕著かな。
これらは、最終的にドレが正しいかというのは私はあまり意味を成していない。エルムズレイがこうやっていたから、これが正しいではなく。その技法が起こす結果がもっとも不自然ではないものを取捨選択すればよいのでは、と私は考えている。
少なくとも、某系列の人がやるエズムズレイカウントより、私のエルムズレイカウントの方が美しいという自信もあるしな。
また、話が逸れた。
マジックの教本というのは、いまなお多くのマジシャンが新しいマジックに触れる場として存在している。しかし、その教本が読者のマジックの知識に対して与える影響力をあまり意識していない解説を多く見かけるようになった。文章力のない人が、たとえマジシャンであろうと解説した文章は正直、瑣末でお話にならない。せっかくの良いルーティンもその趣旨と内容が100%通じなければ意味を成さないのである。
かくいう私も、昔書いていたレクチャーノートは今読み返してみると、これまた読みづらしものが多い。私自身は某TS氏やKH氏がお書きになられたものを参考にしていたのだが、あまり役に立っていなかったのだろうか。しかし、参考にしていた人達のものもあまり分かりやすかったとは言い難いのだが。
結論として、マジック教本というのは実は無責任な部分を大いに含んでいるという事を言いたかったのである。教本に書いていることはもちろん嘘はないのだが、書き手の真意を100%伝える教本を成立させることは非常に難しいということだ。だからマジシャンは読解力に加え、そこに自分の意志を加えなければならない。教本から得られる知識は不完全であると捉え、それを自分の演技に完全に起こす作業は教本とは別にあるのでは、と考えているのである。
以上、元解説者の長き弁明である。