水 5 2月 2003
マジックの進化や成長というのは、マジシャンの想像力にかかっているという事は意外と忘れられているポイントだ。036「マジック教本の無責任度」で述べた内容に対して、掲示板にていくつかの書き込みがあったが、ビデオが一般的に広くマジックの教則として利用されるまでの長い間、マジックは考案者と使用者の間をつなぐものは「フェイストゥーフェイス」か「人づて」か「レクチャーノート」であった。
レクチャーノートは先に述べているように、その技術やルーティンの完成形を100%伝えることは難しい。そもそも本来はありえない事を言葉にする事が非常に難しいことだったり、複雑な動きに加え、手の動かす角度などは、ノートに書ききれるものではない。
このノートの持つ未完成度は逆にマジシャン、つまり利用者の想像力を発展させる要因であったことも忘れてはならない。本を読んでも、どう考えても技法として成立していないという事は多々あり、これを技法として成立させるために、必要な動作や考え方を補完する。それがノート時代に多くのマジシャンが努力し、そして手に入れていた財産といえよう。
掲示板にLILLIPUT氏が書いていただいた、
実際にビデオによる解説が主になった頃片倉さんたちと話してた事であるが、ビデオでの演技を先にみてしまうとそれを超えにくいよね。文章ばかりの時代には勝手に自分のイマジネーションで補って読んでおり、それがまた独自のハンドリングを産んでいたものであり、殊によると原案者より上手いって人もいたと思う。
というのは、ノート時代のよくない部分と良い部分を端的に表したご意見だ。ノートにはこれまでに話してきた弊害だけでなく、それを補って余りある、マジックの発展への寄与があったといえる。
マジックの文化は、これまでの「レクチャーノート時代」と「書籍・ノート混合時代」を超え、ここ数年で「ビデオ時代」そして、これから主になるであろう「DVD時代」という「映像時代」へと移り変わっていく。これは文明の進化であり、小説と映画のようなそれぞれの良さが明確に異なるものと違い、より製作者の意図が明確に伝わりやすい、映像を用いた手法にシフトされていくことは明白だろう。
しかし、映像時代の発展は、これまでに苦労でもあり発展の礎かもしれない、「文章時代における想像力の向上」を失う可能性も秘めている。
私にも小さいながらも経験がある。Brother John Harmanの教本を某茅場町のショップではじめて購入した。(あそこでの購入は後にも先にもこれ一つだったりする)なれない英語を苦労して覚えたマジックはジェミニストーリーと、サインドカードだったと記憶している。
ジェミニストーリーに関しては技法はそのままではあるものの、細かいディティールが教本とおりだとしっくりこない。結果として自分なりに改良し、ルーティンはそのままで、より見やすいものにした。
私自身は、本人の演技を見たことがないので、どちらが優れているかは知らないが、別の人に見せてもらった、ジェミニストーリーより私は自分のムーブの方が良いと思っている。これも教本に自分の知識と想像力を加えることで生まれたケースだ。
これから先、映像によるレクチャーが主流となっていくと、考案者のコピー演技が増えていってしまうのであろうか。これは場合によってはマジシャンそれぞれがもつ個性や想像力を失う傾向を招く可能性があり、その結果、誰の演技を見ても、その考案者のコピーになってしまったら、
そうなることは無いかもしれないが、その可能性を否定しきれない一抹の不安を感じている。
追伸:
この回の話をまとめるにあたって、掲示板でのAKIMOTO氏、LILLIPUT氏のご意見を参考にさせていただきました。両氏に感謝を。