ある意味、仙人のように外界との接触が遮断されているため、最近は思考のトリガー(きっかけ)をまったく別のジャンルで得るケースが多い。そのため、具体論よりも観念論に偏りがちだったりする。思考としてはそのままでは当然深化するわけもないので、捉え方の水平移動をしつつ、立て掘りしていく感じで面白いのだが。

それとは別に、マジックに接している場所で考えるとマジックメーリングリスト(以下、MML)は思考のきっかけとしては重要な位置にある。

ただ、MMLでの討論自体はあまり読んでいないか、もしくは思考自体には影響を与えていない。どちらかといえば、言葉づらだけを拾い上げて、それを論理展開していくことが多い。時間があればそれをまとめたのちに、議論自体も読むのだが。

今回はその中で気になったキーワード「マジックは独学で覚える」を思考してみた。

例によってまずはgooで独学の意味をチェックする。
どくがく 【独学】
師についたり学校に通ったりせずに、一人で勉強すること。
「中国語を―する」

なるほど、ようは誰かに教えを請うのは、是か非かというのがポイントだ。しかし、マジックにおいては言葉などと違い「独学」の範囲が曖昧になりかねない。

独学が推奨すべき点は、おそらく「自分らしさの確立」だろう。誰かに教わるということは事の大小はあるにせよ、その師の考え方を継承することになる。つまり師の色に影響されやすいということだ。言語と違い、マジックには思想がついてまわる。同じ技術をひとつ取っても、見せ方や動き方、使い方などは千差万別十人十色、あそこの奴らのやり方はよくない、この人のやりかたがベストだ。「あそこ」と「この人」は師によって激しく入れ替わる。

これが語学だったら「NOVA」のやり方はよくないってのはビジネス上の嫉妬や攻撃だし、「東京大学の江守教授」の英会話がベストだ。。。。なんてことは決して言わない。だいいち江守教授って誰さ。

マジックという思考を持たない技術ややり方に対して自分の持っている表現力だけで構成することがマジックのオリジナリティを高め、他者にはないマジックになる。という意味で独学というのはアリなように聞こえる。

マジックは一方で誰の思考の影響を受けずにマジックを覚えるということは不可能であることも見逃せない。

マジックを覚えるためには、マジックの技術や道具を入手する必要がある。例えばテンヨーのマジック道具を買ってきて、説明書を読んで覚えて、「俺は独学でマジックを覚えている」とはきっと誰も言わない。それはビデオの説明書を読んでビデオ録画できるようになって「俺は独学でビデオ録画している」とは言わないのと同じだ。ようは「説明書でマジック道具の使い方を覚えている」に過ぎない。

またレクチャーノートやマジック入門書のようなものもまた然りだ。そのステップとは独学で覚えたという次元にはまだ達していない時点と考える。第一、本や説明書にはそれを考案したり解説した人がいるわけだし、レクチャーノートなんてのは会っていないだけで、そのマジシャンからマジックを教わっているわけだから、厳密にいってしまえば独学の範疇は超えているともいえる。

マジック自体をどこから入手するのか。これに独学という言葉を照らしてしまうと、マジックを覚えるのはかなり難しくなってしまう。自分のするマジックをすべて一人で生み出さなきゃならなくなるからだ。

自分の行っているマジックが全て自分のオリジナルで構成されている人というのを私はまだ見たことがない。例えば近代マジック史において誰かが考案したベーシックな技術を使っていても、「これは自分で考えた」と言い張ってしまえば独学といえるかもしれないが。少なくとも、マジックを志す人がマジックの本やマジック道具を一切かわずに、いきなりトランプ1組、コイン1枚だけ手にして「さぁ!マジックを考えるぞ!」なんて人はいないと思う。

すると独学とは何を指すのかといえば、やはりマジックを入手したあとの部分だろう。

自分が得たマジックの道具、技術を自分なりに思考して演技をする。そこに師の介在をえることなくということを独学としたほうがまだ理解しやすい。

こういう人はマジシャン人口においては決して少なくないのではないだろうか。むしろ師匠がいて、その人に手取り足取り教えてもらっていて・・・という人のほうが割合的には少ないだろう。大多数はレクチャーにいって教えてもらう、といっても一人ではなく何人ものレクチャーにいくだろうし、そういったものの中から自分が気に入ったマジックや考え方を取捨選択して自分に取り込んでいくにちがいない。

無論、上記のような人は「独学」とは言えないだろうが。

私が「マジックは独学だ」という思考を続けていくと、どうしても「独学」の範疇で思考が停止する。直接的に人に合わなければ、レクチャーノートやビデオを見てマジックを覚える段階では独学と判定するのは私にはどうしても無理だからだ。

解説には一定量の「解説者・考案者の思想」が含まれる。機械的に一から十まで思想なしに解説を書いたり、マジックを考案することは難しいからだ。そのマジックは世に生まれるには必ず誰かの思考があり、その思考には必ず思想が含まれる。生まれたマジックが世に発表されるのには解説書が必要であり、その解説には考案者のそれに比べれば少ないものの、思想が影響する。

思想の影響が可能な限り少ないものの代表例に「辞書」があるが、辞書ですら出版社の姿勢、つまり思想的な要素が影響するわけだから、厳密にいえば独学とは辞書すら使えないことになりそうだ。これはやりすぎか。

だが、クロースアップマジック辞典のように解説者(か誰かの)思想が諸に影響しているものはもっとわかりやすいだろう。私はあの本を辞典というには思想が出すぎていると考えるカードマジック辞典はさらに顕著だ。最新○○徹底解説!もまた然り。

これは思想が出ているから良くないというわけではなく、マジックそのものを入手するのに思想の影響を受けない方法はないのだから、独学が「思想の影響を逃れるための」手段だとしたら、恐らくマジックには独学の道はないのでは、と考えられるのだ。

思考にはかならずトリガーが存在している。私はマジックの理論を一人で考えているがそこには多くの協力者や、世間からの情報、MMLのような存在があるから思考を開始することができる。しかしこれは独学でもなんでもない。ただ「自分らしさ」を追求するための思考の旅ではあるが。おそらく私は多くのマジシャンの影響を受けつつも、可能な範囲でそれを反芻咀嚼し、自己に貯めている。マジックは独学でという点でいけば、私はそれを「自己における情報の昇華」と解釈したいと思う。現時点では独学の範疇を絞り込む術が私には思いつかず、むしろこれを重要視すべきではないのだろうか。と考えている。