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最近のテーマとはいわないが、マジックにおける、テクニックを前面にしたマジックと、いわゆるギミックのマジックに関して考察をしている。考察とは何かといえば、ようは「彼はテクニックを駆使したマジシャンだ」という評価は、何をもってなされるのか、という話。

そのマジシャンがテクニックだけで見せているのか、ギミックを用いているのかの判断は一般の人にはつかない。彼らがそれを判断するのはマジシャンのプレゼンテーションや、自分の常識の判断において、提示されている情報のなかから推察している憶測にすぎない。

多くの「彼はテクニック〜」という評価は、マジシャンがマジシャンを評価する際に使用される言葉であり、実は褒め言葉でも何でもない。行っているマジックがテクニカルなのか、ギミックなのかを指摘しているだけで、私の考えでいえば、それはクロースアップマジックなのか、ステージマジックなのかを指している程度の言葉にしか過ぎないんじゃないかということである

なぜ、そのような考えになるのかといえば、テクニックなのか、そうではないのかというのは、あくまでもマジシャン側の尺度でしかなく、最終的には観客にとって、「面白い」か、「面白くない」かの判断には、あまり関係がないということだ。テクニックだけでやれば面白くなるというわけでもない、その逆もまたしかり。

究極的な話だが、ギミックを多用してもトランプ1組で見せていればテクニックのように見せる事もできる。逆に、非常に怪しい箱や仕掛けをもってきて、それをノーギミックで全てテクニックで見せても、観客には何か仕掛けのある道具ではないかと見せる事ができる。いや、正確には観客がそう判断することもできる。
つまりテクニックとはショーにおいて提示することと、ショーそのものをテクニックだけでやることは、実はイコールではないということ。それは演出の段階でいかようにも調整がきくというのが答えではないかと思う。

マジックショーにおけるマジックのチョイスはテクニックか否かではなく、最終的には演出でどちらに倒す事もできることを考えると、選ぶ条件においてテクニックかどうかはあまり関係がなく、それは演技上の都合だけで判断するのが適切ではないかと考えるわけである。

先日、2ちゃんねるの趣味一般板におけるマジック・手品・奇術関係のスレでのオフ会に参加した。参加者は11名。うち、これまでに何処かでお会いした事のあるかた5名。自分以外が10名だから半数は何処かでお会いしたいることになる。ちなみに私のレクチャーノートをお持ちの方が4名。これまたお約束といえばお約束か。あんな難しいレクチャーノートを良く買う気になるものだ、と人事のように感心する。

その飲み会で、某氏が「シャトルパス」を見せて欲しいという話になった。そこで、これまた某氏が、シャトルパスを実際に行ったのだが、これがなんとも妙な感じだ。話を聞いてみると某コインマジック辞典を見て覚えた、という。これ以外の参考資料はなかったらしい。

それを見て、これまた違う某氏がシャトルパスを行った。これは明らかに某デビットロスチックなムーブである。正調シャトルパスというか、使えるシチュエーションが限定されまくりなシャトルパスというか、いやいや、もともとシャトルパスは使うべき場所が決められがちな動きではあったりするが。

で、ふと思う。

私も自分のレクチャーノートを含め、数多くの解説書を書かせてもらっているが、このマジックの解説というのは非常に難解である。まだまだ教則ビデオが普及しはじめる前後の時代、マジックを覚えるのはすべて本が主流だった時代のお話である。

マジックの手順の説明は対外のものは技法名を用いることでスムーズに説明するという逃げを多くの教本は行っている。しかしいくつかのマイナーな技法(これもまた、解説者によってマイナーメジャーの区別が曖昧で読者は苦労していたに違いないと思うのだが)は説明をしなければならない。この技法の説明というのが非常にやっかいなのである。

某コインマジック辞典をどうしても例に挙げてしまうのだが、私はコインマジックの大半を人から教わったり、海外のビデオを通じて覚えている。原則的にプロもしくはそれに近い人から教わっているのだが、世の中の大半はそうではない人が多い。つまり、その技法を最初に知り、そのやり方が書かれている本をベースに覚えるのだ。

その本にしても、これまた読者の読解力によってその技法の捉え方が異なる。けっかとして、同じ技法名なのにまったく違った動きが生まれたりするのである。

ここ数年において、その人による技法の差を感じるのが、シャトルパスとエルムズレイカウント(エルムスリーカウント)などが顕著かな。

これらは、最終的にドレが正しいかというのは私はあまり意味を成していない。エルムズレイがこうやっていたから、これが正しいではなく。その技法が起こす結果がもっとも不自然ではないものを取捨選択すればよいのでは、と私は考えている。

少なくとも、某系列の人がやるエズムズレイカウントより、私のエルムズレイカウントの方が美しいという自信もあるしな。

また、話が逸れた。

マジックの教本というのは、いまなお多くのマジシャンが新しいマジックに触れる場として存在している。しかし、その教本が読者のマジックの知識に対して与える影響力をあまり意識していない解説を多く見かけるようになった。文章力のない人が、たとえマジシャンであろうと解説した文章は正直、瑣末でお話にならない。せっかくの良いルーティンもその趣旨と内容が100%通じなければ意味を成さないのである。

かくいう私も、昔書いていたレクチャーノートは今読み返してみると、これまた読みづらしものが多い。私自身は某TS氏やKH氏がお書きになられたものを参考にしていたのだが、あまり役に立っていなかったのだろうか。しかし、参考にしていた人達のものもあまり分かりやすかったとは言い難いのだが。

結論として、マジック教本というのは実は無責任な部分を大いに含んでいるという事を言いたかったのである。教本に書いていることはもちろん嘘はないのだが、書き手の真意を100%伝える教本を成立させることは非常に難しいということだ。だからマジシャンは読解力に加え、そこに自分の意志を加えなければならない。教本から得られる知識は不完全であると捉え、それを自分の演技に完全に起こす作業は教本とは別にあるのでは、と考えているのである。

以上、元解説者の長き弁明である。

引き続き、技術に関して。

よくマジック関係の人に限らず、それ系(なんじゃそら)と話していると、技術はベースであって、それが全てではない、という話になる。まったくもってご高説のとおりではあるが、技術アリキの演技ではなかろうか、と考える。技術が物凄くても、つまらないマジシャンなんて腐るほどいるだろう。演技とかキャラクターで押し切って、技術が水準以下のマジシャンも腐るほどいるような気がするが。

では水準レベルの技術といは一体なんぞや、という話になるのだが、これは個人レベルの解釈に他ならない。しいていえば「演技上、技術の欠点(失敗)が露呈しないレベル」という表現にとどまるが、これにしたって、どこが線引きなのかは、「まあ、このくらいできれば使えるだろう」という個人のマジシャンごとの判断に委ねられる。

同じ技術でも、マジックの経験者と未経験者では、技術の許容範囲が異なる。なまじ知っているだけに気になる部分は当然多くなるわけだ。ボーリングの試合などを見ていても、投げた瞬間に「ああ、ちょっとズレてますねえ」とか解説がのたまうのだが、結果はストライク。素人目にはズレてるのもわからないし、結果も違わないのだから、いいじゃないかと思ったりもする。

良く私なんかが人の演技を批評する場合は、技術とそうではない部分に分けて評価するケースが多い。演技はいいんだが、技術の未熟さ故に演技のテンポを壊しているなどの表現は、演技自体を否定している訳ではなく、それに伴った技術の練習が足りないので、それをすればもっとまとまった演技になるという事だ。

さて、その技術だが、技術の習得仮定はいくつかの段階を踏んでいると考えられる。

まず、習得だ。

習得とは、必要な技法の動きを人通り行える状態を指すのだろう。これまでを習得のための練習と仮定する。エルムズレイカウントにしても、上手い人のと比べると多少ぎこちないものの、現象は起きている。このレベルへ達するまでを習得としよう。

習得した技術は、今度は普通に使えるような技術にするために反復練習を行う。ここを通常はより美しくするための時間だから、研磨とすべきなのだが、私はあえて維持と仮定しておく。

最後に維持され安定化した技術をさらにワンステップあげるために研究を重ね、より完成形もしくは未来形へと発展させる時期。これを研磨とする。

私は技術の習得レベルは、急激な上方曲線から、停滞時期を越え、再び上昇曲線に入ると考えている。それらの曲線は維持期間においては、一定の割合で技術レベルは落ちていくと思われる。しかし日々の練習を怠らない事によってその落ち幅を0以下に抑えることができると思うのである。

日々の練習というのは、ルーティンの練習、日々の演技(観客を前に)、技術の練習によって支えられる。挙げた3つは後者の方が維持率が高い。

1年365日、毎日決められた演技をするマジシャンがいるとすれば、彼らは日々必要な技術レベルを維持するにとどまるため、曲線は限りなく水平に近い上昇曲線を描くと思われる。

当然、技術の練習をするほうが高い上昇曲線を描くのだが、前者のソレとの差は意識ではないかと考えている。今使用している技術を否定するわけではないが、その技術がその状態が完成した形であると捉えるかどうかで、それはさらなる磨きをかけることができるのではないだろうか。

手が動かせるだけではなく、その技術がどのように考えられ、どのような理論によって支えられているかを考えることで、技術は1つの形で多様性を持ち始める。同じ技術でも組み込まれるルーティンや与えられた演技環境において、その最善の形に、手の形、タイミング、テンポなどが変化できるようになると思っている。

私は、得た技術の研磨は終わりがないものと考えている。それは先達のマジシャンによって考案された技法が、その時代における完成形であり、それが未来永劫そのままであることはマジックにおける技術が「技術」という名称である限り避けられないものであると考えているからだ。

すでにある技術を認めつつ、その延長線上にあるやもしれぬ技術の進化に私たちは否定してはいけないと思う。結果として、今ある技術を極限まで高めることも、私は与えられた現代のマジシャンの責務であると思うし、そうすることで、次代へとつなぐ事ができるのではなかろうか。

ここのところ、新旧その他諸々で多くのマジシャンと接する機会を持っている。一期一会というわけではないが、このページを書くに当たって、彼らとの出会いは貴重な研究の場である。

今回の話の対象は、決意の大小の差、今現在置かれている状況や実力の差を考えずに、プロマジシャンと呼ばれる、マジックを生業としている人たちと話している中で気になった話である。

ここ数年、私の身の回りではプロマジシャンを目指している人を多く見かける。無論、すでに営業などを行っていることを考えれば、それは目指しているのではなく、すでにプロマジシャンと言えるのだが、そんな彼らは決して技術力的に誉められる人だけではない。当の本人すら自分の技術力に関してコンプレックスを持っている人がいる。

私はそのような帯域の人を中心にある質問をしている。それは、何か特定の技術を、それだけを練習することがあるのか?またそれはどのくらいの頻度で行うのか、というものだ。

話がボケるので具体的な技法名にしよう。例えばエルムズレイカウントと仮定する。エルムズレイカウントを練習するために、それだけを行う時間を持っているのか?という話だ。

この質問に、若手を始め多くの人間の答えはNOであった。

中でも多く見られたのは、エルムズレイカウントの練習はするが、それは何かのルーティンを何度も繰り返して練習することで、エルムズレイカウントの練習としている。という答えだった。

私はこの方法には疑問をもつ。

演技の反復練習は技法の練習ではなく、あくまでもルーティン上での技法の確認作業であると考える。もし、その方法が成り立つのであれば、プロゴルファーのクラブを振る回数とボールを打つ回数は一緒になるということだ。どんな世界の、どんな技術でも、そのフォームを確定させるまでに素振りを繰り返すのは基本ではなかろうか。

技術のベースを習得するまで、エルムズレイカウントを何度も繰り返したはずなのに、そこそこまでできるようになった段階で、それを放棄し、演技の中で練習しているという事を彼らは言っているのだが、それまた随分、偉い話である。そんなに完成度の高いところまで練習したのか?と問いたくなる。そもそも完成形とは一体なんなのだ、と。

私は日々のルーティンでの練習が物凄く少ない。まあ億劫なだけではあるが。

ある程度の評価を受けているマジシャンにこの話を聞くと、大半のプロマジシャンは、必ず技法だけの練習を自身のプログラムに取り入れている。これはスポーツにおける準備体操に近いのではないかと考えている。

決して,、技術だけの練習を常に行っている人が優れているわけではないと考えているが、私の聞いた範囲においては、この差がそのままマジシャンとしての評価の境目になっていたので、このように書かせていただいた。

いくつかのテーマを抱えているのだが、日々研究中。なかなか面白い話にまとまらない。研究課題はいまだ多く、まだ語り尽くしていないのだが、ことさら言葉にするためには自分の中での反芻作業。他者との討論による煮詰める作業などが欲しいところ。より多くの識者、マジシャンと会うべきだろう。掲示板での会話ももっと活発になると良いかもしれない。

私の書いている話は100%がマジシャン全般の為でもない、中にはプロマジシャンやそれを狙う若者など、マジシャンの中でも特定の人たちへのアプローチが多分に含まれている。そこの境界線は明確にすべきなのだが、まあ、読者が判断してくれるだろう、という甘い認識のまま進めていく。

マジックにおいて、手と口同様に重要な位置を占めているものに、視線がある。マジシャンの視線は現象を効果的にするために、非常に重要なファクターである事は、ここをご覧になられている方の多くがすでに体験し、実践しているものと思われる。

たとえば、右手に持ったコインを左手に渡して握りこむ。息を吹きかけて左手を開くとコインが消えてしまう。これだけの演技を行うのも、視線の使い方一つで現象の効果を増幅させることも、減少させることもできてしまう。

ベースになるのは、マジシャンは現象の発生するポイントを見るということだ。現象を発生させるポイントと、現象を発生させる行動を起こすポイントは異なる訳だから、観客に現象を発生させるポイントを見せるためには、その場所を見る必要がある。

マジックの場合、観客はマジシャンが見ている場所(意識している場所)を見る傾向がある。つまり観客の視線をコントロールするのは、その大半の役割をマジシャンの視線が行っているという事はマジックをする上で意識すべき点である。

また、マジシャンが観客を見ていると、観客はマジシャンを見る。これも忘れてはいけない。観客を見るというのは、観客側を見るという事ではなく、文字通り観客を見るのである。仮に10人の観客がいたと仮定して、このうち30〜40%の人とアイコンタクトをすることができれば、ほぼ全員がマジシャンの顔を見ていることになる。

マジックは、マジックという現象を見せるだけでなく、それを行っているマジシャンを見せているという事を忘れてはいけない。マジックの現象だけしか見ないのは、マジシャンだけだ。どんなにタネを明かそうとしていても、どんなに斜めに見ている観客でも、マジシャンが行う視線の動作に抗うことはできない。

しかし、正しいコントロールをしていなければマジシャンの視線の動かし方は一転して怪しい部分を露呈してしまう道具になりえる。たとえば手元で何かの処理を行わなければならないときに、視線が観客側を向いていても、焦点が観客にあっていなければ、観客はマジシャンを見ないで、手元を見てしまうだろう。

見るという事は、意識するという事である。意識が別の方向に向いていれば、観客は視線にはないどこかへ飛んでいる意識を探そうとする。結果、観客の視線は手元へと誘導されてしまうのだ。

人が見るという事は意識することである。マジシャンの演技を見ている人がマジシャンの意識するもの、すなわち視線に注目するのは当然である。その際に、視線が意識とイコールではないのであれば、そこの観客が気が付くのも当然であるという事は演技の際に意識すべきではないだろうか。と繰り返しておこう。

一方で、現象を観客と自分の視線の間で起こすという姑息な技もある。現象の起きている延長線上にマジシャンの顔があるのは、意外とドキっとするものだ。なにか心を鷲掴みにされる感覚に陥る。

これはもともとの手法はディナーショーなどでの歌手が用いている手法だ。歌手の歌に酔いしれてボーっと見ていると、くるっと、振り向き歌手と自分の視線が重なる。これはかなりイチコロである。ジャニーズのタレントの多くはこの辺の技術が優れている。

マジシャンが演技中に観客と視線を交わすべきというのは、現象の効果を挙げるだけでなく、マジシャンの世界に引き込むという意味でも効果的だ。この辺は、マジシャンのショーを見るよりも、ライブやディナーショーの歌手、もしくはマルチ商法の宣伝マン(笑)、宗教家などが参考になる。いや、参考にしなくても良いのだが、手法としては同じジャンルではないかと考えている。

視線に関する考察もより深めるべきポイントではないかと考えた。

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