Outside of kingsroad


さて、前回のエッセイはマジシャン関係各位にご好評というか、波紋をなげかけているというか、

そんなはっきし書いたら、
誰が書いた本だか、わかっちゃうぢゃん(笑)

というお話もありつつ…ちなみに日記書きの方からも魔女狩りに関してのメールを頂きました。もともと魔女狩りの対象者というのは非常に広かったようです。けっして俗に言う魔法を使っていたものだけではなく、宗教側にとって、真理に反するもの、もしくはその可能性を持っているもの、よーは、邪魔者をひっくるめて排斥しようとしたわけです。

この時代におけるマジックというのは、本当に魔法的扱いでして、いわば今よりも不思議な力、神秘性を帯びていたという事です。

(98/08/04追記)
数年前から日本において派生したMr.マリックに代表される超魔術ブームなどは神秘性という点では、非常に中世の魔法的扱いというものに酷似しているのではと考えた事があります。しかし、中世もおそらくそうだったと思うのですが、超魔術を名乗るすべての人間が優れた超魔術師だった訳ではないようです。そこら辺のマジックショップで高値で扱われている商品をただ演じて、さも超能力のように見せかけていただけという方の方が多かったような気がします。流行っているからという名目だけで超魔術的演出に走り、不思議であれば良しとする風潮は、不思議なものを斜に見る日本文化にはピンポイントで効果を発したものの、最終的に生き残れたのはエンターテイメントとして優秀だったマリックさんだけでしたしね。他の皆さんは何処へ行ってしまったんでしょうか?

こういった時代にヨーロッパで派生したマジックの教本は、そういった魔法的な現象の教本ではなく、カードや、コイン、またカップとボール等のスライハンド(手先を使用した)マジックが大半であり、以降のヨーロッパではこういったマジックが多くなります。現在のヨーロピアンマジックにスライハンドスタイルが多いのは、こういった時代背景があるのかもしれませんが、そこまで調べきってないので、鵜呑みにしないように。また調べときます。

この「マジックと手品」の話ですが、今日、私の師匠等でディスカッションしているなかで、興味深い話を仕入れましたので、ちとここで書きましょう。もともと日本で「マジック=手品」にしてしまった人、つまり諸悪の根元がどこかにいるはずなのですが、ここでは、それを突き止めるのは、今のところ難しいのでまずは辞書を見てみましょう。英和辞書で「Magic」をひくと、和訳の第一候補は魔法なのですが、第二か第三候補になると、かならず「手品」という言葉が入ってます。そか…

てめーが諸悪の根元か(笑)

いえ、違いました。っていうか、違うと思います。これも確認は難しいですね。前回の話でわかるかどうか不明ですが、
手品≠マジックです。しかし辞書では、この二つは等号されている訳です。別々の意味だった言葉が、どこかで同じ意味にされているということになるわけです。

これは…

フィリピン人女性を「家政婦」と翻訳するどこぞの国みたいである。

よーは無知だか世間知らずだか、調べるの面倒くさい人が、そのまま自分の感覚で書いたという事になるのでしょうか?いいえ、違います。よーは、二つは違うという事を説明できる日本人がいなかったのでしょう。

この手品=マジックは多大な影響があります。皆さんは手品というと、程度の低い芸能のイメージを少なからず持ってるかもしれません。貴方はどうですか?ちょっと小馬鹿にしてません?

どうせ、ネタがあるんだろ

とか・・・・ちょっと身に覚えがありませんか?数年前の話ですが、こんな一節がありました。

この間来日して、ちょっとした話題になりましたデビットカッパーフィールドですが、依然にも来日しているのですわ。その際、彼の日本でのショーのタイトルの話、元々海外での公演の際のタイトルは「The magic of David Copperfield」というタイトルだったんですが、これを聞いた日本サイドのプロデューサーが、

マジックって手品だろ?なんか貧相だから・・・イリュージョンにしよう、そうしよう
一部アレンジしてますが言いたい事は変えてません

で、日本側ではマジックショーのタイトルを「The illusion of David Copperfield」にしようと、打診しました。いや前宣伝は勝手にこのタイトルにしたんだっけ?よー覚えとらん。この話を受けてDavidは、憤慨してこう言ったそうで

私のは、イリュージョンなんていう格の低いものではない。最も崇高なマジックだ。
イリュージョンは幻想を意味している、つまり幻であり、実在しないものだろう?
私のマジックは魔法であり、そこに確かに存在している。
確実に存在している魔法を幻というなんて間違ってるよ。
一部アレンジしてますが言いたい事は変えてません

実際にそのとおりでして、マジックとイリュージョンとを比べた時に、単語としてはマジックの方が格が上の意味合いが強いはずです。かたや幻であり、かたや魔法・・・一方はそこに見えていても存在しないものであり、もう一方は存在し得ない出来事ではあるものの確実にそこに実在する現象ですから、これは至極ごもっともということになります。しかし、日本においては手品=マジックが根強く浸透しているために、マジックというワードの価値はかなり低いイメージがあるのでしょうか?これは至極残念なことでもあります。しかし、マジックが崇高なモノであるからといって、手品も崇高ではないですよ。だって、

「The trick of Dabid Copperfield」

なんていうショーだったら、きっとみんな見にいかないでしょ?

マジックという言葉は、最近多くの場所で使用されるようになってきています。例えば、シネマジック(cinemagic)とか羽生マジック(将棋)なんていうふうにこれらは、魔法と言われるに値する奇跡のような映像技術や、指し手に尊敬の念を込めて呼ばれているのでしょうから、もしかしたら日本人の中の「MAGIC」は、少しづつですが変わってきているのではないでしょうか?

いやー、今日も長くなってまいりました。オチもなく、終わりに向かうのですが、この手品とマジックの違いを説明するのはとても大変です。特に、いざショーを見せる、という時にふられたりしたら、こりは、非常に困ります。あと番組やライブの企画ミーティングの時もそうですよね。仕事する上では面倒くさい、説明してもしきれませんからね。まさか、マジックショーをする前に黒板出してきて授業を始める訳にもいきませんし。

だからマジシャンはショーを見せるのです。マジックと手品が違う事、それはマジシャンが見せるマジックを見ると一番納得できるのです。言葉にならない感動や、凄さを、五感で感じ取る事が出来る。マジシャンの5分間のショーは、この日記2日分以上に、あなたに伝えたい事が伝わるはずです。だからマジシャンはマジックショーを見せます。

過去の遺物が犯した、「マジック=手品」という絡み合った毛糸を、ゆっくりと解くかのように、マジックショー1回が、ひとつづつ解いていくのです。いづれ、まっさらな毛糸に戻る事を信じて

以前、マジックと手品の違いに関して力説したのだが、読み返してみたら・・・良く分からないし、あれから少しは考え方も変化してきたので、あらため書き残すことにしてみる。

そもそもマジックと手品は元になっているものが違うのではなかろうか、と。

マジックの起源は中世ヨーロッパに存在した魔女と言われています。世の中の常識に反した現象を次々と起こす事の出来る魔女を、忌み嫌った事によって魔女狩りが生まれます。あれはキリスト教が宗教よりも影響力が大きくなりつつあった魔女を警戒して弾圧しようとしたんだっけな。たしか。どちらかというと魔女狩りは政治色の強い社会現象だったのかな。

この時代に世界で最初のマジックの本が生まれているのは、前回も書きました。筆者は、当時の魔女。使用したカードは確かタロットカードを使用したものだったよな気が…具体的な内容は伝わってないのですが、その現象は今にも通じるものらしいです。

(99/08/03追記)
当時の魔女と言われる魔法使いの面々が実際に魔法を使えたのかマジシャンのようなテクニックや仕掛けのあるものを使用していたのかは、定かではありません。当時出版された「マジックの原理」と呼ばれる本は、魔法使いが自分たちの魔法は誰にでも出来る事を証明するために作られたのかもしれませんし、本当の魔法を隠すために捏造したものかもしれません、どちらにせよ真相は藪の中と言わざるを得ないでしょう。

マジックはその後、多くの分派を生んでいく訳です。それは超能力者も入ってますし、占い師なんかも、そうですね。後はエンターテイメントの世界です。

エンターテイメントにおけるマジックとは、歌や踊り、演劇等と対等に肩を並べる物です。アメリカ西海岸におけるエンターテイメントの最高峰、ラスベガスに於いて、マジックショーをホテルのメインショーに据えるホテルは多いのです。ミラージュホテルのシークフリード&ロイや、シーザスパレスのデビットカッパーフィールド、後はランスバートンとかも、そうですね。どちらかというとグレードの高いホテルになればなるほど、ショーとしてマジックを取り扱っていると思います。

他にもレビューショーの中にマジシャンが入っているのもいたって日常的です。

一方手品は、日本における「手妻」が起源とされています。一般的には大道芸の枠と考えて宜しいのでしょうか。これも後に見世物小屋における「蜘蛛女」などの分派を生むのですが・・・手品は常に落語等の寄席における前座芸としての位置づけでしたね。いわば古典芸能くさいです。またエンターテイメント性の低い事が多かったです。無論全員がそうだとは決していいません。

(99/08/03追記)
根を掘り下げていくと、手妻も中世の魔法がルーツであることは、おそらく間違いないでしょう。ここで問題視しているのは、あくまでも日本芸能文化が手品という一つのジャンルを軽視し続けたというのがポイントだと考えています。現在の日本国内のマジック界は、この古典芸能から派生しているグループ・団体と、そうではない人たちとが入り混じっている状態です。
一人一人の手品師・マジシャンを振り分けるような面倒な手間は惜しんだのでこのような表現になっていますが、私自身はプロとしての姿勢などを見ていて尊敬に値する手品師の方々もいらっしゃいます。有名なところではマギー四郎さんなんかが顕著です。彼は手品師としての確立された姿勢、プロ意識など頷く点が多く、非常に感心させられたことがあります。

手先の技術を用いた芸であるという印象を日本人に強く思わせているのは、この手品という言葉と手品師の「種も仕掛けもありません」という常套句、また「俺様にしか出来ないんだよ」といった演技から滲み出る優越感がもたらしたものでしょう。

で、この語源や起源の違いをイコール手品とマジックが違うと言ってる訳でもありません。

実は問題はもっと根深いものがあります。私が言っている手品とは、その姿勢がどうしても許せないものの事を指している場合があります。

例えば、

演技を見せる前に観客が、「どうにかしてタネを見破ってやる」と意気込んでいる場合、あなたはどうしますか?

という設問があったとしましょう。これに対する解答として、とある手品師は本にこんな事を書いていました。

その場合、「タネなんかは、後でいくらでも教えてあげますので、まずは僕の演技を見てください。いいですか」と言ってからショーを始めましょう

…ですって。

観客馬鹿にしすぎ

演技が中途半端であれば、観客はそこで行われているマジックショーではなく、マジックそのものの方法に焦点を合わせたくなります。これは日本人特有の文化ではありますが、一方で演技をする側にも問題を感じるのは否めません。こんな教え方を信じているマジシャンがいるから困っちゃいますよね。

まあ、これに限った事ではないのですが、エンターテイメントとしては、とても考えられない事を平気で世に伝える人できれば、こういう方と同じ枠ではいたくないなぁ、と思う訳です。そのために手品とマジックを区切るというエクスキューズで使ってるのかもしれませんね。

日本人の手品師というのは、非常に偏っていて技術だけが極端に突出していて演技力がまったくなウツケモノというのが、沢山います。一方で、ろくすっぽ練習もしないで技術力が皆無なのを隠してマジックは演出と演技力があれば、見せる内容はどうでもいいんだよ、などという口上を繰り返す馬鹿もいますな。

大事なのはやはり全ての面で最低限の水準を超えた力を持っているべきと私なんかは考えます。

で、

重要なのは、観客に手品だろうがマジックだろうが夢のあるもの素晴らしいショーを提供する事が出来るか、ということです。そういった意味では、私はどちらもマジックにしても手品にしても否定しないのですが、なかなかそーはいかない人もいるようでして、困ったもんです。

ネタを知りたいという観客の欲望も分かります。それでも最後には、そんな欲求も忘れてしまうほどのショーが展開できるかどうか、そこにかかっていますね。

ただ、その点に関しては手品よりも海外のエンターテイナーとして成功しているマジシャンの方が優れているというのは、否めないでしょう。日本国内でそういうショーを構成できる人を探すのはどちらかというと苦労するような気がします。無論、皆無ではない事は知っているのですが…

(99/08/03追記)
エンターテイメント性の低いマジシャンが多く輩出される要因として、私自身は局地的に行われる機密性の高いマジックの大会というのを時折考えます。海外の大会は例外なのですが、国内で行われる大会の中では、観客も演者もすべてマジシャンというモノがあります。このような場所で行われるマジックコンテスト等は、マジックとしての優劣に比重が置かれているのではないのかな、と懸念します。
観客に分からないような技術・仕掛けがモテハヤサレ、それこそ出来レースのようなモノがあるのかもしれません。このような場所で優秀な成績を残しているマジシャンが優れたマジシャンというのであれば、それは「マジシャンの為のマジシャン」でしかないような気がします。
無論、そういう大会で優勝しているマジシャンが優れていないという訳ではありませんが、やはり「楽しませる」という部分が欠落したコンテストではなかろうか、と思ってしまうのは、おそらく私だけではないのでは。

書きおわってみたら、またもや取り留めのない文章になってしまいました。結局何がいいたいのやら、ま、この論議はまだまだ成熟過程ですので、気が向いたらまた書きますわ、それでは。

久方鰤に自宅にてビデオでも見ようと、アトレ恵比寿にある新星堂で米米クラブの解散コンサートビデオ「THE LAST SYMPOSIUM」を買ってから帰宅する。

正味3時間半程度のビデオを最後まできっちりと鑑賞・・・・ちきしょー、おもしれーぞ。

もともと米米クラブというバンドのコンサートは音楽性というよりもエンターテイメント性が高い。「聴かせる」というコンサート本来の要素と同じ高さに、「見せる」コンサートであり、「楽しませる」コンサートという二台要素を持ってきている。

コンサート全体の構成やコンセプトなどもシリーズ毎に変化させ、唄だけでなくコントを挟んだり、コントメインで唄が間にあったりと、多種多様である。

昔見た時はツアーでは一つの会場で2日連続公演だが、二つのコンサートでワンセットというもの。ようは内容がまったく違う。一日目、歌っている途中でみんな止まってしまって幕が降りてしまう。

「コンサートの途中ではありますが・・・」

と米米クラブのマネージャー登場して、その場はおしまいって感じ(無論、アンコールはあるんだけどね。)で、翌日はその制止しているトコロから始まる。しかもただの演出だけではなく、そこにストーリーが存在しているのである。ちょっと下世話なネタなのでここでは書かないけれども。

今回の解散コンサートもイカしている。
登場して、

「それでは最後の曲です」

と、初手から最後の曲。で2曲歌ってほんとに終わりやがんの(笑)
しかも、会場から出るための誘導アナウンスまで流す手の込んだ演出。

で、観客は許す訳ねぇって。アンコール(米米ではボーナスショータイムと呼ぶ)を求めるわけですよ、そうするとアンコールが始まる訳です。

延々2時間30分(笑)

おそらく、国内コンサート史上希に見る長時間のアンコールでしょう。デビュー当時からエンターテイメント性の高いショーをメイクアップしていた米米ですが、最後までエンターテイメントでしたわ。これはやはりカールスモーキー石井という一種の天才が絡んでる訳ですね。ほんま、長い間ファンであった私としては残念な解散でした。

さて、このショー構成というのは、マジックにおいても重要でして。最近は丸々一本のマジックショーを演出するという事をしてなくて、しどくご不満です。

数年前は、六本木R-HALLをベースに「WIZARD NIGHT」というマジックライブショーの演出をしていましたが、あれは楽しかった。結局延べ20数回行ったのですが、毎回あれやこれやと演出やコーナーを考えて、
なるべく単なるマジックショーの連続にはならないようにと奮闘していました。結局、最終回までにあのライブで自分が演技をしたのは・・・2回くらいだったような気がしますが。

話がそれた、

マジックにおけるショー構成は、いやマジックに限らずエンターテイメントのショー構成は、決められたルールというか、御約束がありますわ。漫画やドラマ・芝居で言うところの起承転結です。やはり盛り上げるところは盛り上げて、じっくり見せるところはじっくり見せる。これは大きなショーだけでなく、15分のショー、一つのマジックでもまったく同じです。

このルールを無視して、自分がやりたいものとか、ただひたすらにインパクトの強いマジックを並べても、観客は喜ばないのです。先ほども書きましたが、ひとつひとつのマジックでもそうです。最初っから最後まで弾けるような現象の連続という訳ではないのです。仮にそのような物を完成させたとしても、それは抑揚がなく驚けるはずなのに、あまり観客が驚くことが出来ないという奇妙な現象を生み出してしまいます。

やはり、笑わせるところは笑わせて、聞かせるところは聞かせて、息を飲ませるところはじっくりと…そういった色々な観客の得る感情を揃えたり、一個所に集中させたりということを演出や構成、会話で組み立てる事でひとつの演技が成り立つのです。

マジシャンの中には、クロースアップマジック(テーブルで見せるマジック)とイリュージョン(舞台などで見せる大掛かりなやつ)は演出方法は違うからねぇ、とか嘯く方によくお会いしますが、そういう人には

君がやってる手品と僕がやってるマジックは違うからねぇ

とか言ってやりたくなるんですが、そういうマジシャンにマジで言ってみると、きっと

えっ、手品とマジックって違うの?

とか言われちゃうんだろうなぁ…と常々思います。

(99/08/03追記)
たしかにクロースアップとイリュージョン、サロンなど、どれをとっても現象の違いはあり、それを同じにすべきと言っているわけではありません。あくまでも基本となる「起承転結」の概念や、抑揚によるエンディングをよりインパクトを出す方法などの原理原則が同じであるという事です。
ステージだから、全部派手にしなきゃいけないとか、ステージは語ってはいけないとか、時折意味不明なマジック演出論を耳にしますが、まったくもって意味がわからない話ではないかと思う今日この頃です。マジックそのもののカテゴリーや見ている観客の人数、場所、様々な条件によって演出は変化しますが、その根底の部分には何も変化がないという事は、知っておいてもらいたいものですね。

マジックの大会なども大会場になると、そうに応じて色々な諸問題が出てきます。
分かりやすいことで言えば映像面ですよね。大人数でクロースアップマジックとなると、
むろん、一般の方が想像するよりもかなり多くの観客に見せることが出来るのですが、
それにも限界や制限があります。

その為、テレビカメラなどの映像は非常に大事になってきます。これは大会場のモニターだけでなく、たとえばテレビ番組などの場合でも大事ですけどね。大会場でいえば後ろの方のお客様にとっては、ステージではなく画面を見る訳ですから、この映像がその場面ごとに適切な映像を映していなければ、どんなに面白いマジックも効果半減です。

しかし、このマジックの映像というのは非常に難しいのです。
なぜなら、マジック特有の突発的な驚き、つまりエンディングに起きる予想もつかない現象というのが関係してたりします。

たとえば、1組のカードの中からカードを引いて、覚えてもらって戻してもらいましょう。このカードを良く切って指を鳴らすと、テーブルの端に置いてある鍵のかかった宝箱から出てくるなんていう場合、
演技を知らずに演技を映していれば、当然の事ながらカメラの映像は手元によっていきます。しかし、演技自体はもっと広い場所を映して欲しい。いざカードを出そうとした時に、宝箱に映像がいってなければ、こりはどうしようもないです。

マジシャンはある域に達すると、大抵の演技が次にどのような動きが行われるかが、六感的な感覚で分かります。それは自分のボキャブラリーや、過去の見てきた記憶の中から想定されるのです。

あ、今度は何かをポケットから出すのかな、とか
さっきあそこに置いた何も入ってない封筒の中から何か、とか

だから、演技の中で現象が起きる数秒前に、その演技が取り易いような状態にカメラマンへの指示が出せるようになるのです。これは本当の話。

(99/8/02追記)
ちなみに国内で放送される超能力系のテレビ番組などの大半は事前にリハーサルを行って、どこでどんな現象がどんな順番で起きるかを事前に打ち合わせしています。無論、円滑に番組収録を進めるためには必要な手順ではあるのですが、これには大きな問題もあります。

マジックの現象がインパクトがあって、驚けるのは、自分で見て脳が反応するからという理由があげられます。無論、それだすべてではありません。

全てを打ち合わせたカメラマンが撮影をすると、これから起きる現象をしっていますので、カメラマンはあまり驚きません。つまり現象とテレビの前の視聴者の間に「全てを知っている人」というフィルターがかかってしまうのです。

感覚的なものなのですが、ある程度は知っていても大事な部分は知らないで、カメラマンも驚くというのは、臨場感のあふれるマジックの映像がブラウン管に届くのです。

この手法を利用していて非常に人気が高かったのは今から6年ほど前にCATVのスペースシャワーTVの番組「BUM-TV」の1コーナーであった「WIZARDS INN」というコーナーです。

無論これは、マジックの能力だけでなく、カメラの映像そのものをある程度知らなければ行う事が出来ないというのが難点です。マジックしっていてもカメラがどう動けばどういう映像が撮れるか知らなければ、鬼に酢昆布みたいなもんです。

映像に残すマジックというのは、実は非常に難しいという講釈でございました。

そういえば、これを書いている時には「さいか」という名前を使用しているのだが、
マジシャンとして国内で活動している時は本名を使っている。
・・・まぁ芸名ってのはイマイチしっくりこない。
ハンドルがあって本名があって、しかも芸名があると、
名前を呼ばれる時に反応が遅れてしまいそうで・・・

実際、さいかというハンドルは本名に結構ニュアンスが似ている。
しかも本名のほうは、結構芸名みたいに嘘臭いなまえなのである。
嘘臭いっつーのは、本当にこんな感じで書くのか?っていう意味でね。

で、マジシャンに私の素性がばれるのはいっこうに構わないのだが、
わたしのこのページを含め基本的にマジシャンとして書いている感覚が少ない。
まぁ、日記にマジックの話を書いたり、他のコンテンツでもそれっぽいことをしているが、
ほかのマジシャンのページとは、あきらかに異なる毛色である。
分かりやすく言えばマジシャンとしてのページが無い構成になっている。

っつーか、意図的にマジシャンとしては登録しないようにしている。
隅のほうにマジックって書くけどね(笑)

では何故そうしないのか、至って簡単な話なのだが
大きくマジシャンとかマジックとか書いているマジシャンのページは、失礼な言い方だが余り面白くない事が多分にある。もちろん、全部がそうだなんて言わないけどね。ベクトルがどうも気に食わない。

内輪にしかわからないタネや仕掛けの話を書くのはまぁいいや。
しかし、中には一般の方に向けてタネや仕掛けを露呈している馬鹿だっている。
ま、そういう人たちがやっている事は、ひどく稚拙だったりするから、ほとんど影響はないけど

あとは、ヘタクソなのに他人のマジックを批判したり。
批判するのは個人の自由だし、それを束縛する事はないけれど、不特定多数に発信する以上は己の意見をしっかりと持って責任を負って欲しい。発するだけ発して吐くだけ吐いてホッタラカシなどは言語道断。
これらはWeb上にある以上はマジックの知識レベルが様々な人達が見るのだから、それに対する確固たる自己の姿勢が明確でないと、無責任すぎるといつも思う。

あと、華々しい経歴だけを並べて、どうだ凄いだろ系もよくある。
なんか、WEBでわざわざ鼻持ちならない奴を演じて嫌われたいのかな?と思ってしまう。
彼らは何を理由にそんなページを上げているのだろうか?実は皆目見当が付かない。

マジシャンが、マジシャンとしてホームページを書くのは、
それぞれに理由があるはずである、
マジックをもっと知ってもらいたい、
マジシャンってどんな奴か見てもらいたい
俺を見てくれー

とかさ、でも実際にWEB上でマジシャンと名乗ってホームページを上げている大多数は

アマチュア

だったりもするわけで、それがさもプロのような雰囲気でページを運営しているのも事実。
とはいえ、プロマジシャンのページが優れているかといったら、これも難しいね(笑)

WEBっていうのは、知識の得る場所としては興味深いとずーっと思っている。
下手な本屋に行くよりは、より早く、より多くの情報が眠っている。
問題なのは

虚偽がある

ってことぐらいかな。
まぁ本屋にも似たようなものはあるけど。
結局、プロアマ、専門家、素人入り交ざって様々な情報が錯綜する場所というのが、WEBの持っている本質的で普遍の部分。そうしたら情報を受け取る側が、その振り分けをしなきゃいけないってことになる。
マジックなんて世界は、あまりにもマニアックな部分が強いから、WEBで情報を流していれば、最初に見たページをうのみにする可能性だってあるわけだ。
最初に見たマジシャンのページがくだらなければ、

マジックってくだらない

と思う可能性だって秘めている。
これは、マジックがくだらないんじゃなくて、その人がくだらないからなのかな・・・

僕はマジシャンとしてマジックの話を書く時、特に考え方とかの話ね、
これは細心の注意を払うようにしている。

僕は西海岸を中心にマジックの理論やエンターテイメントとしての捉えかたを吸収してきた人だから、
日本で古来からマジックや手品を見せている人との意見のずれがある。
それは僕が、エンターテイメントとしてミュージカルやその他のものとマジックが対等になる事ができるというのを前提にしているので、手品とは並行に走ることはあっても、たぶん交わることはないかな、交わりたくないし。
でも、僕は自分の意見に自信を持ってるし、間違っているとも思わない。
その代わり、己の意見をきちっと言えるだけの仕事と努力をしてきたしね、
・・・アマチュアじゃないし。

それぞれのマジシャンが、それぞれのマジック論でマジシャンとは何か,マジックとは何かを
WEBを通じて、多くの一般の人たちに見せているのだから、責任持って欲しいわ。

たぶん、今の日本で
マジックに触れる可能性が一番高いのは、
インターネットの中なんだから・・・

話のまとまりが悪い、ようはインターネットで流れているマジックのインフォメーションって、
これからのマジックにおいて凄い大事なんじゃないの?って話でした、まる

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