Narrow-minded Thought


間が空いてしまったが、引き続きサーストンの三原則やぶりのお話。

復習のために書くと、サーストンの3原則とは、

「マジックを演じる前に現象を説明してはいけない」
「同じマジックを2度繰り返して見せてはいけない」
「種明かしをしてはいけない」

で、前回は「マジックを演じる前に現象を説明してはいけない」に関してお話した。今回は「同じマジックを2度繰り返して見せてはいけない」だ。

これに関して、私が海外のマジシャンと話した内容をベースに考えると、「同じマジックを2度繰り返して見せてはいけない」に対する考え方は人それぞれで、私の仲の比較的良いマジシャンの1人、Alfonsoにおいては「もっとも素晴らしいのは、1人の人に見せるマジックは全て1回だけがいい」とまでいう。繰り返しどころか、同じマジックはその人には一度しか見せないということだ。なるほど、そりゃすげえ。無論、同じ事が二度行われないということは、その一回の現象が強烈に印章付くと共に美化されることで、最上の奇跡の「記憶」を作り出すことができる。

日本で見たり、聞いたりするなかで多いのは「一度見せたあとに、『もう一回見せて』と言われてやってしまうのは良くない」というものだ。これも理解できない事は無い。一度見たマジックを続けて行うことは、観客側が前回見た記憶をトレースすることで、現象を見るのではなく違う視点(すなわちネタを探す行為)を持つことができるため、「してはいけない」というよりも「やっても効果が薄い」ということになる。まあ、そんなことはサーストンに言われなくても分かるやろ。とか思うのは私だけだろうか。いや、そんなことはない。

しかし、私はここでも普段の仕事で原則やぶりをしていたりする。まあ原則やぶりというか抜け道のような気がするが。

その最も多い例が、「アンビシャスカード」と「ポケットに通うカード」である。私が知り合いのバーでのクロースアップマジックでのショーは、この両方がほぼ間違いなくルーティンに組み込まれている。

バーでのショーはショータイムが切られているのではなく、雑談の中にマジックを織り込む事が多く、観客からの要望も多く出てくる。特に多いのが、もう一回やってくれ、というリクエストだ。おそらくマジックをしているにおいては、よくある話である。

私は、これらのリクエストを「同じ事は二度もしません」と言って断ることが出来ない。なんか居丈高で全部そんなことを言っていると「やっぱカードに仕掛けがあって準備しないと出来ないんだ」とか思われる事もある。そのため、同じマジックを行う。

ただし

私は、「アンビシャスカード」と「ポケットに通うカード」に関しては通常行うルーティンとは別に、同じルーティンをほぼ同じ流れでまったく違う技法を用いて行う「裏ルーティン」を持っている。そのため、同じ現象を同じようにやっても、観客は前回の情報をもとにやり方を暴こうとすることができない。これは私の対処方でもある。

また、この裏ルーティンに加え、「別エンディング」を複数用意している。同じルーティンの流れだが、エンディングだけ変えることにより、同じマジックを見るという一種の驚きのない演技の最後にどんでん返しを設け、観客に予想していなかった驚きを加える。これは一種の演出だ、という考えすら観客に与えることが出来る。

これは同じマジックを二度繰り返してはいない、ともいえるが、「ポケットに通うカード」自体は二回演技しているわけだから、やはりサーストンの原則には違反しているような気がするのだが。

これもどうだろうか?

マジシャンならば、サーストンの三原則は誰もが知っていなければならない、というのがネット上でサーストンの三原則で検索した結論だ。ここでいうサーストンというのは、1900年代初頭に活躍していた(らしい)マジシャン、ハワード・フランクリン・サーストン氏を指している。

大半の説明では、サーストンの原則はこのサーストンが言ったこと、とされているが、説として、彼の文献の中から、日本人の翻訳者がまとめなおして、このようにした、という話もある。まあ諸説紛々、誰かいったとしてもたいした差異ではない。まあ、もしサーストン本人がこう言っていなかったとしたら、いい迷惑な気もするが。

サーストンの三原則とはほぼ大半の解説は以下の通り
「マジックを演じる前に現象を説明してはいけない」
「同じマジックを2度繰り返して見せてはいけない」
「種明かしをしてはいけない」

元の文献を読んだことも、サーストン氏の考えを聞いたことも無いので、
まあ、この文言から推測するしか現状としては手がない。

推測するといっても、読んで字の如しとはいえるだろうが、いくつかの解説を読むと、どうやらこの3つの原則は必ず守らなければならないようだ。なるほど。

これらの原則はおそらく、例外が存在しているはずだ。残念なことに、これらの三原則を説明している文献や解説などをみても、例外については触れていない。私などは例外だらけで、三原則やぶりまくりだ。そういう点から考えると、マジシャンじゃないのかもしれない。

実際に、どのような状況下において、これらの原則をやぶっているのか、今回で書ききるのは面倒なので、今後、何回かにわけて、その状況を語りたいと思う。これらは原則やぶりになっているのか、そして、それはいけない事なのか、という事を考えていただきたいと思う。

今回とりあげるのは、「マジックを演じる前に現象を説明してはいけない」だ。これは人により、表現がことなり、「あらかじめ演技の内容を話さない」とか、「現象を説明しない!」とか、書き方は様々ですが、これはようは、発生する現象の結果を、その現象が発生する前に説明してはならない。ということでしょう。ああ、日本語は難しい。

これに対する私の考えは、035「期待した結末と予想通りな結末の違い」に現れている。状況に応じて、現象が発生する前に、現象を説明することによって、その結果を受けた観客の驚きが倍増するケースは決してないとはいえない。ではなかろうか。

他のサイトでケースとして挙げていたのは超魔術系である。この分け方が正しいかは別にして、現在おかれている状況を正確に理解した上、起きる現象が不可能であればあるほど、その状況は説明したほうが、観客の驚きを増加させることができる、と考えられかと思う。

例えば、1組のカードを観客に渡して、良く切り混ぜてもらう。その中から1枚のカードをマジシャンにも見えないように取り出して覚えてもらい、そのカードを中に戻して、再び混ぜてもらう。この状態から観客のカードをマジシャンが当てるというマジックがあったとしよう。(035のコピペ)

このマジックのポイントは観客がよりカード当てが不可能な状況だと思えれば思えるほど、そのカードが当たったときに驚けるわけだ。つまり、そのカード当てがどれだけ不可能な状況なのかを観客が理解している必要がある。

これは現象の説明とは多少異なるかもしれないが、起こすべき現象を理解してもらう為の説明という点では、同様の意味を指しているとも考えられるだろう。

これも原則をシビアに捉えるとダメなのだろうか?

マジックの進化や成長というのは、マジシャンの想像力にかかっているという事は意外と忘れられているポイントだ。036「マジック教本の無責任度」で述べた内容に対して、掲示板にていくつかの書き込みがあったが、ビデオが一般的に広くマジックの教則として利用されるまでの長い間、マジックは考案者と使用者の間をつなぐものは「フェイストゥーフェイス」か「人づて」か「レクチャーノート」であった。

レクチャーノートは先に述べているように、その技術やルーティンの完成形を100%伝えることは難しい。そもそも本来はありえない事を言葉にする事が非常に難しいことだったり、複雑な動きに加え、手の動かす角度などは、ノートに書ききれるものではない。

このノートの持つ未完成度は逆にマジシャン、つまり利用者の想像力を発展させる要因であったことも忘れてはならない。本を読んでも、どう考えても技法として成立していないという事は多々あり、これを技法として成立させるために、必要な動作や考え方を補完する。それがノート時代に多くのマジシャンが努力し、そして手に入れていた財産といえよう。

掲示板にLILLIPUT氏が書いていただいた、
実際にビデオによる解説が主になった頃片倉さんたちと話してた事であるが、ビデオでの演技を先にみてしまうとそれを超えにくいよね。文章ばかりの時代には勝手に自分のイマジネーションで補って読んでおり、それがまた独自のハンドリングを産んでいたものであり、殊によると原案者より上手いって人もいたと思う。

というのは、ノート時代のよくない部分と良い部分を端的に表したご意見だ。ノートにはこれまでに話してきた弊害だけでなく、それを補って余りある、マジックの発展への寄与があったといえる。

マジックの文化は、これまでの「レクチャーノート時代」と「書籍・ノート混合時代」を超え、ここ数年で「ビデオ時代」そして、これから主になるであろう「DVD時代」という「映像時代」へと移り変わっていく。これは文明の進化であり、小説と映画のようなそれぞれの良さが明確に異なるものと違い、より製作者の意図が明確に伝わりやすい、映像を用いた手法にシフトされていくことは明白だろう。

しかし、映像時代の発展は、これまでに苦労でもあり発展の礎かもしれない、「文章時代における想像力の向上」を失う可能性も秘めている。

私にも小さいながらも経験がある。Brother John Harmanの教本を某茅場町のショップではじめて購入した。(あそこでの購入は後にも先にもこれ一つだったりする)なれない英語を苦労して覚えたマジックはジェミニストーリーと、サインドカードだったと記憶している。

ジェミニストーリーに関しては技法はそのままではあるものの、細かいディティールが教本とおりだとしっくりこない。結果として自分なりに改良し、ルーティンはそのままで、より見やすいものにした。

私自身は、本人の演技を見たことがないので、どちらが優れているかは知らないが、別の人に見せてもらった、ジェミニストーリーより私は自分のムーブの方が良いと思っている。これも教本に自分の知識と想像力を加えることで生まれたケースだ。

これから先、映像によるレクチャーが主流となっていくと、考案者のコピー演技が増えていってしまうのであろうか。これは場合によってはマジシャンそれぞれがもつ個性や想像力を失う傾向を招く可能性があり、その結果、誰の演技を見ても、その考案者のコピーになってしまったら、

そうなることは無いかもしれないが、その可能性を否定しきれない一抹の不安を感じている。

追伸:
この回の話をまとめるにあたって、掲示板でのAKIMOTO氏、LILLIPUT氏のご意見を参考にさせていただきました。両氏に感謝を。

先日、2ちゃんねるの趣味一般板におけるマジック・手品・奇術関係のスレでのオフ会に参加した。参加者は11名。うち、これまでに何処かでお会いした事のあるかた5名。自分以外が10名だから半数は何処かでお会いしたいることになる。ちなみに私のレクチャーノートをお持ちの方が4名。これまたお約束といえばお約束か。あんな難しいレクチャーノートを良く買う気になるものだ、と人事のように感心する。

その飲み会で、某氏が「シャトルパス」を見せて欲しいという話になった。そこで、これまた某氏が、シャトルパスを実際に行ったのだが、これがなんとも妙な感じだ。話を聞いてみると某コインマジック辞典を見て覚えた、という。これ以外の参考資料はなかったらしい。

それを見て、これまた違う某氏がシャトルパスを行った。これは明らかに某デビットロスチックなムーブである。正調シャトルパスというか、使えるシチュエーションが限定されまくりなシャトルパスというか、いやいや、もともとシャトルパスは使うべき場所が決められがちな動きではあったりするが。

で、ふと思う。

私も自分のレクチャーノートを含め、数多くの解説書を書かせてもらっているが、このマジックの解説というのは非常に難解である。まだまだ教則ビデオが普及しはじめる前後の時代、マジックを覚えるのはすべて本が主流だった時代のお話である。

マジックの手順の説明は対外のものは技法名を用いることでスムーズに説明するという逃げを多くの教本は行っている。しかしいくつかのマイナーな技法(これもまた、解説者によってマイナーメジャーの区別が曖昧で読者は苦労していたに違いないと思うのだが)は説明をしなければならない。この技法の説明というのが非常にやっかいなのである。

某コインマジック辞典をどうしても例に挙げてしまうのだが、私はコインマジックの大半を人から教わったり、海外のビデオを通じて覚えている。原則的にプロもしくはそれに近い人から教わっているのだが、世の中の大半はそうではない人が多い。つまり、その技法を最初に知り、そのやり方が書かれている本をベースに覚えるのだ。

その本にしても、これまた読者の読解力によってその技法の捉え方が異なる。けっかとして、同じ技法名なのにまったく違った動きが生まれたりするのである。

ここ数年において、その人による技法の差を感じるのが、シャトルパスとエルムズレイカウント(エルムスリーカウント)などが顕著かな。

これらは、最終的にドレが正しいかというのは私はあまり意味を成していない。エルムズレイがこうやっていたから、これが正しいではなく。その技法が起こす結果がもっとも不自然ではないものを取捨選択すればよいのでは、と私は考えている。

少なくとも、某系列の人がやるエズムズレイカウントより、私のエルムズレイカウントの方が美しいという自信もあるしな。

また、話が逸れた。

マジックの教本というのは、いまなお多くのマジシャンが新しいマジックに触れる場として存在している。しかし、その教本が読者のマジックの知識に対して与える影響力をあまり意識していない解説を多く見かけるようになった。文章力のない人が、たとえマジシャンであろうと解説した文章は正直、瑣末でお話にならない。せっかくの良いルーティンもその趣旨と内容が100%通じなければ意味を成さないのである。

かくいう私も、昔書いていたレクチャーノートは今読み返してみると、これまた読みづらしものが多い。私自身は某TS氏やKH氏がお書きになられたものを参考にしていたのだが、あまり役に立っていなかったのだろうか。しかし、参考にしていた人達のものもあまり分かりやすかったとは言い難いのだが。

結論として、マジック教本というのは実は無責任な部分を大いに含んでいるという事を言いたかったのである。教本に書いていることはもちろん嘘はないのだが、書き手の真意を100%伝える教本を成立させることは非常に難しいということだ。だからマジシャンは読解力に加え、そこに自分の意志を加えなければならない。教本から得られる知識は不完全であると捉え、それを自分の演技に完全に起こす作業は教本とは別にあるのでは、と考えているのである。

以上、元解説者の長き弁明である。

「落ち」というか、マジックのエンディングに関していくつかアイデアがふくらんでまとまりかけているので、暫くの間、「オチ」特集としてみる。

私のオチに対する考え方はいろいろな要素が複雑に絡み合っている。まあ、一括りの考え方で語れるほど、マジックにおけるオチは甘いものではない。こうして書いているなかでもこぼしてしまうテーマはあるだろうし、それを揚げ足にとられても困ったりもする。何でも例外というものはあるのだ。それは個々に潰していくしかないだろう。

さて、前章で私は「観客は予期しない結末だから驚ける」という書き方をしたが、これには当然のごとく例外が存在している。また例外といっても特例ではなく、普通にあるパターンである。

例えば、1組のカードを観客に渡して、良く切り混ぜてもらう。その中から1枚のカードをマジシャンにも見えないように取り出して覚えてもらい、そのカードを中に戻して、再び混ぜてもらう。この状態から観客のカードをマジシャンが当てるというマジックがあったとしよう。

このマジックのポイントは観客がよりカード当てが不可能な状況だと思えれば思えるほど、そのカードが当たったときに驚けるわけだ。しかし、これは予期せぬ結末ではない。しかし観客は興奮する。この結末こそ「期待した結末」というものだ。

観客はマジシャンの演技の流れのなかで、最後に、これはこうなるんだよな、と考えてしまうことがある。これはマジシャンの演技において、それを意識させるように仕向けているケースを指しているのだが、観客はそうは感じていても、それが最後にそうなるとは、どう考えても納得できない、不思議なことである、と感じる。

つまり、こうなると「予期」するものの、そうなるはずがないと感じ、しかし、そのエンディングを「期待」しているという流れだ。ある意味で予想した結末ではあるのだが、そうはならないという否定を含んでいるが結え、観客の頭の中では「できない」と思ったものが「できた」のだから、これは観客の想像を越えた結果という認識ができる。

よくマジックをなじみの人に見せていたり、マジック愛好家に見せると言われる感想が、
「さいかさん、ずるい」
「さいかさん、ひきょうだ」
「これだからマジシャンは信用ならねえ」
「詐欺だ、詐欺」
「納得いかねえ」
などと言われる事がある。かく言う私もそういう感嘆をあげる時がある。

これらは、一種の賞賛であると私は考えている。つまり、自分の認識に多大な誤差を生む結果に対して、一般の人は「すごい」「ふしぎ」「なんで?」などの言葉を用いるのだが、これが一般ではない人の場合、上記のような言葉を使うのではないか、と考えている。

話が逸れた。

一方で、期待した結末に似ているがまったく異なるのが「予想通りの結末」である。これは同じ結果でも観客の得る印象はまったく違うものだ。

人間の心理というのはこの紙一重で大きく異なってくる。「あー、やっぱりね」という言葉ですら、予想通りの結末に飽きれる意味もあれば、予想はしていたが、なるとは思っていなかった出来事に皮肉まじりに出ることもある。

マジックの全ては予期せぬ結果にすることは難しい。だから、予想できる結果も、観客がそうなると凄いなという期待感を持つような演技にしなければならないのではないだろうか。

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