talk


年末に向けてマジックの営業がだんだんと増えてきている今日この頃。まあ、あまり受けていないのでキツいという事ではない。それだけで飯を食う人達に比べると大分ましか。

マジックのやり方を人と話していたり、実際に見せた場合。一般的な観客とマジック経験者もしくはマジシャンなどによって、マジックが面白いかどうかの物差しは微妙に異なるようだ。別に変わった話ではないのだが。

この業界にいる人は、原則的にマジシャンである。マジックを演じる経験を持っていたり、マジックをしょっちゅう見ていたり。彼らとマジックの話をしたときに、たまに「?」と思うことがある。彼らのほめるマジシャンは「マジシャンが見て」凄いマジシャンのケースが多いからだ。

概ね、マジシャンが見て凄いマジシャンは、一般の観客が見ても凄いマジシャンであると思われるのだが、時にはそうでもない人も多々いる。凄い技術をどんなにこなせるとしても、マジシャンとして営業できないなんていうマジシャン。一人や二人は覚えがあるだろうかと思う。

逆に、観客に物凄い人気のあるマジシャンが、マジック業界では評価が低いケースもある。これはその彼が行う現象が比較的本やビデオに載っている有名なルーティンばかりで、目新しさがない場合だ。

どっちのマジシャンが優れているのか?というのは非常に難しいテーマだ。私の結論は「稼げる奴のほうがスゲエ」なのだが。

これを細分化すると、マジックも同じ話ができる。すなわち、

・マジシャンが見て凄いと思うマジック
・一般の観客が見て凄いと思えるマジック
・どっちが見ても凄いと思うマジック

である。

この業界で生きていく場合、果たしてどのマジックが多いのが良いのだろうか、無論、どっちが見ても凄いマジックにこしたことはないのだが、そうもいかないのが世の常である。

マジックの現象のもつ不思議さは受け取る側の能力によって左右されるものであるという事を言いたいのだ。

よくマジックの専門書を読んでいると「シンプルだが思った以上の効果が生まれる」という表記を目にする。実際、見ると大したことないマジックが観客には受けるというケースだ。

マジックは長い経験をもち知識を増やしていくと、この観客から見て不思議なマジックを選び出すという能力が徐々に衰退していくと私は思っている。いわばマニア化することにより、観客の目線でモノを見れなくなる、というものだ。

私が数多くのマジック愛好家と話しているときに思うのは、この能力欠如を起こしている場合と、一般の視線を意識しすぎたがために、穿ったモノの見方になってしまっている場合があるということだ。「一般人にはこうした方がうける」的な言い方で、やりかたを自分なりにアレンジしている大半のマジシャンは、この一般感覚過剰症候群といえるだろう。ポイントは一般人という物言いだ。

マジックの不思議は突き詰めれば万人に不思議であるはずなのだが、知識や経験はそれをボカしてしまう。あるものをあるがままに受け入れたときに、不思議さに差分が発生するというのも、私からしてみると不思議なことではあるのだが。

うむ、文章がまとまらないのは結局何が言いたいかが定まっていないから。私自身はマジックを考えていたり、自分のレパートリーを増やすときに、ここ数年、マジシャンに見せるマジックがどんどん減っている。おそらく見たマジシャンは「Psykaって大した事ないなあ」と思われそうだが、その大した事ないマジックの数々の精度を高めるというのも、大事ではなかろうか、などと。

ああ、やっぱまとまってない。再考しよう←じゃあアップするなよ。

目は口ほどにモノを言う。ということわざがあるが、マジックにおいては、「手は口ほどにモノを言う」となる。マジックにおける動きのいくつかは、実際には口で言えば済んでしまうことが多くあり、マジックをしない人から見ると、なぜそんな事をするのだろう。という気持ちになる事がある。

例えば、エルムズレイカウントなどで4枚のパケットを確認したり、ビドルグリップにもった表向きのジャックを1枚ずつ確認したり。これらはすべて、口で言えば2秒もかからず説明できてしまう。パケットを広げて「ここに1,2,3,4枚のカードがあります」で事が足りてしまうわけだ。

マジシャンの技術のいくつかは、この宿命を背負っている。ここをいかに解決するかがマジシャン個々の技量ではないかと考えている。技術そのものに問題があるものも中にはあるかもしれないが、大半は使用者の技量を問うものだと考えている。

さて、そんな技術だが、私が演技の際に特に気をつけているのが、現象と台詞のズレである。

通常、実際に行っている現象をそのまま台詞にしてしまうものを「ラジオマジック」と呼んでいる。つまり、目をつぶっていても、そのマジシャンが何をしているのかが分かる演技というものだ。

実際に典型的なラジオマジックの演技における台詞を抜粋してみよう。

ここに2枚のジャックがあります。それでは、こちらの残りのカードから1枚好きなカードを取って、見て覚えてください。覚えましたか、それではこちらに戻してください。
今から、この2枚のジャックがこのデックの中からあなたのカードを探してきたら不思議ではありませんか?それでは早速やってみましょう。1,2,3!
ご覧下さい、2枚のジャックが1枚のカードをはさんでいます。あなたの選んだカードはなんですか?ハートの9ですね。こちらがそのカードであることをご確認ください。ありがとうございました。

これは、某氏の演技をそのまま台詞だけ抜粋させていただいた。台詞の間などがあるものの、おおむね間違っていない。これを読んでいただくと、このマジシャンが何をしているのか、下手をするとどんな動きをしているのかまで想像がついてしまう。これがラジオマジックである。

この台詞には、わざわざ口で言わなくても観客がマジシャンとカードを見ているだけで分かることが多分に含まれている。こんどは同じ台詞の余計な部分を斜体で見せてみる。

ここに2枚のジャックがあります。それでは、こちらの残りのカードから1枚好きなカードを取って、見て覚えてください。覚えましたか、それではこちらに戻してください。
今から、この2枚のジャックがこのデックの中からあなたのカードを探してきたら不思議ではありませんか?それでは早速やってみましょう。1,2,3!
ご覧下さい、2枚のジャックが1枚のカードをはさんでいます。あなたの選んだカードはなんですか?ハートの9ですね。こちらがそのカードであることをご確認ください。ありがとうございました。

赤ペン先生みたいだ。文章を増やさないように添削したので多少無理があるが、ようは状況表現が非常に多いのである。ジャックが2枚なのは見ればわかるし、カードを探すのはジャックを出している以上はそれを使うのもわかる。2枚のジャックに1枚のカードが挟まっているのも、目が見えない以外はおそらく理解できるはずだ。極端な話でいうと、ジャックであると言わなくてもいいくらいである。

マジシャンが言葉で必要以上の情報を観客に与えることは、時にマジックの現象自体の希薄化を促す事がある。現象の希薄化というのは、言葉による情報の入手により発生する現象のもつインパクトや不思議さを打ち消してしまうということである。

マジックにおける言葉での情報伝達は非常に難しい。何も伝えなければ良いのかというと、必ずしもそういう訳ではない。現象のインパクトを増幅させるために、台詞を利用するケースだってある。

例えば、非常に不可能と思われる状況下でカードを当てるマジックがあったとする。この際に、何もいわずにカードを当てるよりも、そこに至るまでのシチュエーションを反芻し、以下にこのカードを当てることが難しいかを説明するほうが、観客にそのカード当てじたいの難易度が理解しやすく、不思議さが増す場合もある。

マジックにおける台詞。特に動作・現象に直結する台詞には限度と頻度のバランスが存在している。まったく現象に触れずに台詞を構築させる手法も一時期多かったが、結果として演技と台詞がまったくかみ合わず、観客に「?」を与えるだけという酷いものが後期出現した。

とはいえ、前出のラジオマジックのように目をつぶっても何をしているのかが分かってしまってはちょっとどうかと思う。私はリスペクトするクロースアップマジシャンは多いのだが、これまでに見てきたなかの若干のプロマジシャンは、このラジオマジックであった。私は彼らをリスペクトすることはできない。もしかしたら、世界初のラジオでマジックができるマジシャンになるかもしれないが。

NHKのかなり昔の世界のマジックショーで、誰の演技かは忘れたが、ステージマジシャンの演技でナレーションの人が演技の最中に「さあ、これからハトが出ますよ」という、するとハトがでる。こんなん見てて楽しいのか?と我が目を疑ってしまう。もしホラー映画で「ジェイソンが出るまで○秒前」とか左下にテロップ入ったら怖くないのと一緒である。

生の演技もこれらと同じである。マジックの起こす現象は神聖なもので、期待されているものである。マジシャンは観客のために、この期待感をそぐような行為はするべきではないのである。

またマジシャンはマジックという現象を起こす事を生業にするのである。だからこそ、台詞は最新の注意を払い、マジックに集中しやすい環境を作り出す道具であると認識すべきだ。

マジックにおいて、プレゼンテーションは必須である。具体的に何をもってプレゼンテーションとするのかは難しいところだが、何かストーリーテラーになって物語を話すだけがプレゼンテーションというわけではない。起きる現象を有体に説明するのも、これもまたプレゼンテーションの一部と言える。

今回のテーマ、リアリティとファンタジーの境界線に関していえば、前者のストーリーテリングにおける重要な要素といえるだろう。

私は、マジシャンの語る話はすべてが真実である必要はないと考えている。マジックをより魅力的に見せるという条件において、「嘘」は「嘘」ではなく「フィクション」になりうると考えているからだ。世の中に作り話は山のようにある。テレビのドラマがすべてノンフィクションだったら、漫画がすべてドキュメントしかなかったら、世の中、こんなにつまらないものはない。

フィクションは嘘と卑下するものではなく、エンターテイメント性を持った、一つのファクターなのである。これは非常に重要だ。

だからこそ、マジシャンは自分のマジックにストーリーを紡ぐ、
「私が子供の頃・・・・」
「私がラスベガスを旅行している時のことです・・・」
などなど、自らの体験談やヒストリーを枕にマジックをするマジシャンは多くいる。
彼らの多くはその物語はフィクションであり、これを「嘘だ」という観客はいないだろう。

しかし

私はここにフィクションだけではなくリアリティを持つべきと考えている。

リアリティというのは真実ではない、「本当らしさ」を指している。マジシャンの語るストーリーが「嘘」であると思われる最大の要因はマジシャンにリアリティがないからだ。

例えば、マジックを始めて1年も経っていない人が「数年前、ラスベガスに旅行した時の話です」とギャンブラーズトリックを見せ始め、「そこでマジシャンだった私は」などと話が展開すれば、これは残念なことにリアリティがないのである。

自らの体験を元にしたストーリーには必ずリアリティが必要と私は考えている。これは、マジックを初めて一年で、そういうストーリーをするな、という意味ではなく、それならそれなりのストーリーが考えられるという事を伝えたいのである。

私は、自らのマジックにおけるプレゼンテーションにはリアリティを重要視する傾向がある。例えば、ジョンハーマンの「Gemini Story」というマジックを演じる際に、私は起きる一連の現象は、アメリカで1963年に発表された映画のシナリオであるという話をし、単なる双子の話なのに何故印象深いかというと、その映画の登場人物はすべて一人の役者が演じていた。という落ちをつけ、4枚のカードが全て同じカードになるというフィニッシュを設けている。

無論、1963年にそんな映画は発表されていないし、そんな器用な役者がいたという記録もない。

しかし、このプレゼンテーションは私自身が演技において語ることによって、実際にそんな映画があったと観客に思わせるだけの説得力を演技上加えることに気をつけている。

私はマジシャンとして口から発する言葉はどんな言葉であれ、ショーの一部と捉え、ショーである以上はフィクションは必要と考えている。しかし、単なるフィクションは時には観客をしらけさせてしまう。だからこそ、そのフィクションにはリアリティという名の説得力が必要なのである。

優秀な映画の多くがメインストーリーを囲む様々な設定が細部まで作られているように、マジシャンは自分の語るストーリーは細部までこだわるべきなのである。

私の他のマジックを例に取ると、魔法のランプを使用したインターレストバニッシュがある。これはアラビアンナイトを題材に演じるマジックだが、私はこのマジックのストーリーを考えるに当たって、様々な資料を通じてアラビアンナイトを研究している。自らが詳しいからこそ、アラビアンナイトの説明に説得力が増すのである。

優れたマジシャンの多くは、このプレゼンテーションにおける説得力、すなわちリアリティにおいて格段の力を持っている。これは彼らの経験からくる説得力の場合が大半だ。しかし経験のないマジシャンも知識という貯蓄を得ることで説得力を増すことは容易にできるのである。

リアリティという鎧を身につけることができれば、単なる「つくりばなし」は「フィクション」へと昇華し、そこにはエンターテイメントが生まれるのである。

マジックを演じる際に、重要な要素として語るべきは「沈黙」であろう。

演技の最中に言葉を発しない、すなわち「黙る」ということは大きな効果と多大なリスクを背負うものであるということは、多かれ少なかれ気が付くことである。

この効果とリスクは実は同じ効用から生まれるものである。それは喋らないことによって、観客は演技者の動きに集中するというものだ。さて、それが何故、効果とリスクを生み出すのだろうか。

まずは、リスクから説明していこう。

沈黙のリスクを説明するにあたって、もっとも分かりやすい例は、カード当てなどで、観客にカードへサインをしてもらう時がある。「それではカードの表にサインしていただけますか」と発すると、観客がカードにサインしてもらっている間はマジシャンが黙っているケースがある。この間、観客は何もすることがない、つまり手持ちぶたさになってしまうわけだ。演技者を見ても黙っているだけで、何もしていないし、しいていえばサインしているを黙ってみているという状態だ。これは観客に集中してもらうべきポイントではない。

私はこのような状態を「マジックにおける放送事故」と呼んでいる。

サインをしてもらうという行為は大事だが、それは観客に見せる必要のない部分でもある。サインしてもらっている間に、詰めるべきプレゼンテーションは多い。例えば、サインしてもらった後に、プレゼン的な要素を含む台詞を用意しているのであれば、その一部、もしくはそれに繋がるような枕をサインをしてもらっている間に話してもいいだろう。

他にも、手順の都合上、トップから複数枚のカードをブレークしなければならないときに、カードを指先で数える場合、多くのマジシャンはその瞬間、台詞が無くなる。台詞が無くなるわけだから、観客はマジシャンの動きに注目する。すると、そのマジシャンはカードを手前から覗き込みながら、指先を細かく動かしている。これはいけない。

このような状態も「マジックにおける放送事故」と呼ぶ。

これらの例を読んで、ピンと来るものはあっただろうか。これ以外にも多くのケースが存在している。すなわち、沈黙がマジシャンの演技に対して悪影響を及ぼすケースだ。

私はこれらの過ちを少なくするために自身に「3秒ルール」なる制約を設けている。これは意図的な沈黙でない限り、3秒以上の沈黙は避けるというものだ。通常の演技(ここでの通常というのは居酒屋などで見せるマジック)の場合、これは5秒ルールに変化し、ショーなどの場合は1秒ルールになる。これは状況に応じ、沈黙を意図的に作るケースが多くなればなるほど、秒数が短くなるのである。この辺は理論でもお話することにしよう。

このルールを念頭におくと、演技の手順処理時やサインをしてもらうなど、何もしないときでも自然と言葉で埋められるようになる。この考え方はラジオの技法を用いており、ラジオでは言葉だけで放送を維持するために、沈黙を作ることはすなわち放送事故になるのである。一般的にラジオにおける沈黙が許されるのは3秒までとなっており、私の3秒ルールもここから来ている。

一方で、沈黙による効果があることも見逃すことはできない。

沈黙は使い方によって、集中だけではなく緊張を生み出すこともできる。例えばもっとも重要な現象を起こす前に、演技者が印象的な台詞と共に黙ると、観客はその現象が起きるであろう場所に対して集中し、緊張する。そして、現象もしくはマジシャンの台詞によって緩和されるのである。これが演技における緊張と緩和である。

たとえば、2枚のカードを重ねて持ち、それをテーブルの上にあるグラスの真上にもってくる。そこからコインが出現し、グラスの中に落ちる。このような現象があったとしよう。

この演技をマジシャンが何かをしゃべりながら行い、そのしゃべっている間にコインが出現すれば、それは不意に起きる現象であり、観客に驚きを提供できる。しかし、コインの出現はマジシャンの台詞にかぶるのであるから、現象自体への集中度は低いため、次へ繋がるマジックとして捉えられるだろう。

これを、マジシャンが会話をしているなかで、会話をとめ、カードをすっとグラスの上にもっていき視線をカードに向ける。一呼吸おいてグラスの中にコインが落ちれば、ここには集が生まれ、それがグラスに落ちるコインの音によって緩和される。

文章では理解し難いものがあるが、この2つの現象は、見た印象が大きく違うことはご理解いただけるだろうか。

時にマジシャンは観客に現象への集中を促すために、沈黙を用いる方がより良い場合がある。無論、沈黙による集中は観客に対して効果的であると共に、僅かな疲労感を与えることになる。そのため、演技の中に数多く用いることは逆効果になる場合もある。効果的なポイントで使うことで、その効果は倍増するということを覚えておいていただきたい。

まさに沈黙は「金」なのである。

沈黙は同じ効用において、リスクと効果をもつ。これはクロースアップマジックにおいて重要な要素である。ステージマジックにも同様の考え方があるのだが、これはステージマジシャンに語ってもらうべきことであろう。私が語るべきポイントはここまでである。

TALKの章では、主に演技の最中の会話、すなわちプレゼンテーションなどを論じる事になる。しかし、ここでの章全体のイメージは「しゃべり」と定義させてもらおう。そのため、語られる内容としては、演技中だけでなく、演技以外のしゃべり、つかみのトーク、司会における話法などに広がる。また演技の最中の現象と会話の同調・非同調などもこのトークの章の対象となる。

私自身は、比較的この「しゃべり」を大事にというか、重要視するタイプのマジシャンであると考えられる。事実、マジックの感想は述べられなくても、「さいかさんのトークは好きです。」と言われるケースも多い。私自身はマジックにおけるこの話法はまだまだ発展途上の部分も多く、己の勘と、これまでの蓄積でどうにか体裁を取り繕っている部分が多い。

そういって点で、この章を用いて自身の話法に対する考え方を整理することができて、かつ今までに見逃していたり、見ないようにしてきた弱点なども認識することができれば、と考えている。

さて

マジックにおける会話において、もっとも重要なのはマジックと共に自分にこだわりをもっているかどうか、という点に尽きると思っている。特に言葉は、視覚に訴えるマジックと共に観客に聴覚の部分で送り込まれる重要な情報となる。具体的な割合は分からないが、演技者の言葉は時には観客にそのマジックの印象をも変化させる。

これは後に話すことになるキャラクターの部分とも密接に繋がっているのだが、会話がしっかりとしてないという点よりも、自分が発する言葉に対して自分なりのこだわりをもっているかどうかが重要なポイントではないかと考える。

私は、会話に関してはいくつかのこだわりを持って全てのショーを行っている。これは大会などの演技だけでなく日常のショーなどでも重要なポイントだ。無論、すべてがパーフェクトではない点が己の未熟さでもあるのだが。

こだわりの方法は人それぞれである。様々な方向のこだわりが存在していると考えている。しかし、重要なのは自分というマジシャンを表現するにおいてマジックと勝るとも劣らない自己表現であるという再認識と自覚は、自身のレベルアップに重要ではないだろうか。