theory


同じマジックを続けるというのは非常に重要なことで、ひとつの演目を完成させて長くその演目をやることで、演目は成長していく、というのが私の中には持論として存在している。

重要なのは、一度完成した演目がそこを最終地点としない意識ではあるのだが。

かれこれ10年近く演技しているものに「ポケットに通わないカード」というものがある。最初にそのアイデアを知ったのが20歳の時だから10年以上になるのか。以降、そのアイデアをベースにして試行錯誤を繰り返して、現在の「ポケットに通わないカード」は現象こそは由来となるマジシャンがいるが、その手順自体は私のオリジナルになっている。

私の「ポケットに通わないカード」は演技するたびに修正というか調整を続けており、一週間前と今日の演技でどんなポイントでもいいので0.1mmの成長を残すようこころがけている。最高の演技は存在しているかもしれないが、演技そのものに到達するゴール地点はないと考えている。演技はその時の状況や自分の置かれている状態。前後の演目、時間・・・様々な要因に関わっており、一度行った演技が最高であったとしても、それはそのシチュエーションにおいての最高点であり、そこはゴールではないのだ。

私は「のりしろ」の薄いマジシャンがあまり好きではない。3年前にみた演技と同じ演目を3年後に見た時に、成長という名の「のりしろ」が少ないマジシャンは、一気に興味が薄れる。そのマジシャンは演目の完成こそがゴールであり、そこから先は横ばいにしかならないのだろう。演技全体に改良の余地などいくらでもあるのに、そこは何も手をつけていない。そこで完成していると認識しているから、もうそのまま使えるだろうと考えて日々行っているのだろう。

本当にできているかどうかは別にして、自分が日々成長することをイメージして進まなければ、久方ぶりにあった人にマジックを見せて「あいかわらずイイねぇ」と言われることは、私は決して喜びはしない。むしろ「さらにすごくなったねえ」という趣旨のほめ言葉を貰えるように努力したほうが、自分も成長すると思うのだが。

何故成長するのかといえば、人は年をとるからだ。30歳の演技と31歳の演技はいい意味でも悪い意味でも変化していく。その変化が退化になるのか進化になるのか良化、悪化・・・言い方は色々である。維持もまた変化する年齢に対して、自分のマジックもまた変化してトントンになっているとはいうが、その伸び幅を伸ばせば、それはプラスになるはずである。

久方ぶりに会うマジシャンの演技には、私はいくばくかの「のりしろ」を期待してしまう。成長という名の「のりしろ」が少ないマジシャンは、一気に興味が薄れる。私にとって「のりしろ」とは、そういう存在なのである。

間が空いてしまったが、引き続きサーストンの三原則やぶりのお話。

復習のために書くと、サーストンの3原則とは、

「マジックを演じる前に現象を説明してはいけない」
「同じマジックを2度繰り返して見せてはいけない」
「種明かしをしてはいけない」

で、前回は「マジックを演じる前に現象を説明してはいけない」に関してお話した。今回は「同じマジックを2度繰り返して見せてはいけない」だ。

これに関して、私が海外のマジシャンと話した内容をベースに考えると、「同じマジックを2度繰り返して見せてはいけない」に対する考え方は人それぞれで、私の仲の比較的良いマジシャンの1人、Alfonsoにおいては「もっとも素晴らしいのは、1人の人に見せるマジックは全て1回だけがいい」とまでいう。繰り返しどころか、同じマジックはその人には一度しか見せないということだ。なるほど、そりゃすげえ。無論、同じ事が二度行われないということは、その一回の現象が強烈に印章付くと共に美化されることで、最上の奇跡の「記憶」を作り出すことができる。

日本で見たり、聞いたりするなかで多いのは「一度見せたあとに、『もう一回見せて』と言われてやってしまうのは良くない」というものだ。これも理解できない事は無い。一度見たマジックを続けて行うことは、観客側が前回見た記憶をトレースすることで、現象を見るのではなく違う視点(すなわちネタを探す行為)を持つことができるため、「してはいけない」というよりも「やっても効果が薄い」ということになる。まあ、そんなことはサーストンに言われなくても分かるやろ。とか思うのは私だけだろうか。いや、そんなことはない。

しかし、私はここでも普段の仕事で原則やぶりをしていたりする。まあ原則やぶりというか抜け道のような気がするが。

その最も多い例が、「アンビシャスカード」と「ポケットに通うカード」である。私が知り合いのバーでのクロースアップマジックでのショーは、この両方がほぼ間違いなくルーティンに組み込まれている。

バーでのショーはショータイムが切られているのではなく、雑談の中にマジックを織り込む事が多く、観客からの要望も多く出てくる。特に多いのが、もう一回やってくれ、というリクエストだ。おそらくマジックをしているにおいては、よくある話である。

私は、これらのリクエストを「同じ事は二度もしません」と言って断ることが出来ない。なんか居丈高で全部そんなことを言っていると「やっぱカードに仕掛けがあって準備しないと出来ないんだ」とか思われる事もある。そのため、同じマジックを行う。

ただし

私は、「アンビシャスカード」と「ポケットに通うカード」に関しては通常行うルーティンとは別に、同じルーティンをほぼ同じ流れでまったく違う技法を用いて行う「裏ルーティン」を持っている。そのため、同じ現象を同じようにやっても、観客は前回の情報をもとにやり方を暴こうとすることができない。これは私の対処方でもある。

また、この裏ルーティンに加え、「別エンディング」を複数用意している。同じルーティンの流れだが、エンディングだけ変えることにより、同じマジックを見るという一種の驚きのない演技の最後にどんでん返しを設け、観客に予想していなかった驚きを加える。これは一種の演出だ、という考えすら観客に与えることが出来る。

これは同じマジックを二度繰り返してはいない、ともいえるが、「ポケットに通うカード」自体は二回演技しているわけだから、やはりサーストンの原則には違反しているような気がするのだが。

これもどうだろうか?

マジシャンならば、サーストンの三原則は誰もが知っていなければならない、というのがネット上でサーストンの三原則で検索した結論だ。ここでいうサーストンというのは、1900年代初頭に活躍していた(らしい)マジシャン、ハワード・フランクリン・サーストン氏を指している。

大半の説明では、サーストンの原則はこのサーストンが言ったこと、とされているが、説として、彼の文献の中から、日本人の翻訳者がまとめなおして、このようにした、という話もある。まあ諸説紛々、誰かいったとしてもたいした差異ではない。まあ、もしサーストン本人がこう言っていなかったとしたら、いい迷惑な気もするが。

サーストンの三原則とはほぼ大半の解説は以下の通り
「マジックを演じる前に現象を説明してはいけない」
「同じマジックを2度繰り返して見せてはいけない」
「種明かしをしてはいけない」

元の文献を読んだことも、サーストン氏の考えを聞いたことも無いので、
まあ、この文言から推測するしか現状としては手がない。

推測するといっても、読んで字の如しとはいえるだろうが、いくつかの解説を読むと、どうやらこの3つの原則は必ず守らなければならないようだ。なるほど。

これらの原則はおそらく、例外が存在しているはずだ。残念なことに、これらの三原則を説明している文献や解説などをみても、例外については触れていない。私などは例外だらけで、三原則やぶりまくりだ。そういう点から考えると、マジシャンじゃないのかもしれない。

実際に、どのような状況下において、これらの原則をやぶっているのか、今回で書ききるのは面倒なので、今後、何回かにわけて、その状況を語りたいと思う。これらは原則やぶりになっているのか、そして、それはいけない事なのか、という事を考えていただきたいと思う。

今回とりあげるのは、「マジックを演じる前に現象を説明してはいけない」だ。これは人により、表現がことなり、「あらかじめ演技の内容を話さない」とか、「現象を説明しない!」とか、書き方は様々ですが、これはようは、発生する現象の結果を、その現象が発生する前に説明してはならない。ということでしょう。ああ、日本語は難しい。

これに対する私の考えは、035「期待した結末と予想通りな結末の違い」に現れている。状況に応じて、現象が発生する前に、現象を説明することによって、その結果を受けた観客の驚きが倍増するケースは決してないとはいえない。ではなかろうか。

他のサイトでケースとして挙げていたのは超魔術系である。この分け方が正しいかは別にして、現在おかれている状況を正確に理解した上、起きる現象が不可能であればあるほど、その状況は説明したほうが、観客の驚きを増加させることができる、と考えられかと思う。

例えば、1組のカードを観客に渡して、良く切り混ぜてもらう。その中から1枚のカードをマジシャンにも見えないように取り出して覚えてもらい、そのカードを中に戻して、再び混ぜてもらう。この状態から観客のカードをマジシャンが当てるというマジックがあったとしよう。(035のコピペ)

このマジックのポイントは観客がよりカード当てが不可能な状況だと思えれば思えるほど、そのカードが当たったときに驚けるわけだ。つまり、そのカード当てがどれだけ不可能な状況なのかを観客が理解している必要がある。

これは現象の説明とは多少異なるかもしれないが、起こすべき現象を理解してもらう為の説明という点では、同様の意味を指しているとも考えられるだろう。

これも原則をシビアに捉えるとダメなのだろうか?

「落ち」というか、マジックのエンディングに関していくつかアイデアがふくらんでまとまりかけているので、暫くの間、「オチ」特集としてみる。

私のオチに対する考え方はいろいろな要素が複雑に絡み合っている。まあ、一括りの考え方で語れるほど、マジックにおけるオチは甘いものではない。こうして書いているなかでもこぼしてしまうテーマはあるだろうし、それを揚げ足にとられても困ったりもする。何でも例外というものはあるのだ。それは個々に潰していくしかないだろう。

さて、前章で私は「観客は予期しない結末だから驚ける」という書き方をしたが、これには当然のごとく例外が存在している。また例外といっても特例ではなく、普通にあるパターンである。

例えば、1組のカードを観客に渡して、良く切り混ぜてもらう。その中から1枚のカードをマジシャンにも見えないように取り出して覚えてもらい、そのカードを中に戻して、再び混ぜてもらう。この状態から観客のカードをマジシャンが当てるというマジックがあったとしよう。

このマジックのポイントは観客がよりカード当てが不可能な状況だと思えれば思えるほど、そのカードが当たったときに驚けるわけだ。しかし、これは予期せぬ結末ではない。しかし観客は興奮する。この結末こそ「期待した結末」というものだ。

観客はマジシャンの演技の流れのなかで、最後に、これはこうなるんだよな、と考えてしまうことがある。これはマジシャンの演技において、それを意識させるように仕向けているケースを指しているのだが、観客はそうは感じていても、それが最後にそうなるとは、どう考えても納得できない、不思議なことである、と感じる。

つまり、こうなると「予期」するものの、そうなるはずがないと感じ、しかし、そのエンディングを「期待」しているという流れだ。ある意味で予想した結末ではあるのだが、そうはならないという否定を含んでいるが結え、観客の頭の中では「できない」と思ったものが「できた」のだから、これは観客の想像を越えた結果という認識ができる。

よくマジックをなじみの人に見せていたり、マジック愛好家に見せると言われる感想が、
「さいかさん、ずるい」
「さいかさん、ひきょうだ」
「これだからマジシャンは信用ならねえ」
「詐欺だ、詐欺」
「納得いかねえ」
などと言われる事がある。かく言う私もそういう感嘆をあげる時がある。

これらは、一種の賞賛であると私は考えている。つまり、自分の認識に多大な誤差を生む結果に対して、一般の人は「すごい」「ふしぎ」「なんで?」などの言葉を用いるのだが、これが一般ではない人の場合、上記のような言葉を使うのではないか、と考えている。

話が逸れた。

一方で、期待した結末に似ているがまったく異なるのが「予想通りの結末」である。これは同じ結果でも観客の得る印象はまったく違うものだ。

人間の心理というのはこの紙一重で大きく異なってくる。「あー、やっぱりね」という言葉ですら、予想通りの結末に飽きれる意味もあれば、予想はしていたが、なるとは思っていなかった出来事に皮肉まじりに出ることもある。

マジックの全ては予期せぬ結果にすることは難しい。だから、予想できる結果も、観客がそうなると凄いなという期待感を持つような演技にしなければならないのではないだろうか。

少し前に、スポンジボールの話をしていたことがある。

スポンジボールの好き嫌いは激しいようだ。人によっては見るのも嫌い、絶対やらない、あんなの受けないと言うし、人によっては、大好き、素人に受けるとか、子供に受けるとか。たぶんどっちも間違っていないだろう。しかし理論的に、なぜそうなのかを、しっかり説明できる人はあまり会った事がない。

かくいう私はスポンジボールを昔演じていた。現在はまったく演じない。ただし、スポンジうさぎは時々見せるときがある。単体の演技では見せないのだが。

色々な人との話と、私の経験則をあわせると、現時点での私の考えているスポンジに対するメリットとデメリットは以下のようになっている。

【メリット】
2つに増えるという現象が「増加」ではなく「分裂」という見せ方ができる。
カードでもコインでもない幕間のアクセントになる。

【デメリット】
どうも安っぽいので、私のキャラに会わない。
エンディングが乏しい。インパクトにかける。

他にもあるが、こんな感じの私見をもっている。

メリットにおいて、ウサギを観客の目の前でビジュアル的に分裂させた時のリアクションは非常に面白い。マジシャンが、まるで粘土を2つにわけるように、いとも簡単に2匹のうさぎにするのは、特に子供の心をぐっと掴むようだ。私の演技が終わった後に、よく子供にうさぎの首を引きちぎられてしまうのは、そのせいかもしれない。

一方でエンディングの乏しさというのは、私が感じているものである。大きくなったり、沢山出てくるというのは、私の趣味的に貧相だということだ。増えたりするものが、大きくなったり、沢山になっても、それが時によっては観客の想像の範疇を越えない。

また、スポンジは一般的に多くの人が知っている場合があり、あまり観客に新鮮さがなかったりする。別に誰もが知っているわけではないのだが、なんとなく見たことがあるという記憶が多いようだ。なので、普通のルーティンでは、「さすがプロ」と思うようなエンディングに到達しづらい。

観客の常識の範囲を超えた、唐突ともいえるエンディングがあれば、スポンジは充分に私の日常的なルーティンになりえるものと思っているが、そのアイデアはまだ生まれていない。多くのアイデアはそれが「スポンジのオチ」である必要がなかったりするのだ。

マジックにおいて、オチ、すなわちエンディングは非常に重要な要素である。「終わりよければ全てヨシ」ではないが、最後が美しくなければ、それまでにどんな優れた事を行っていたとしても、それらは全て無に帰してしまう。

体操競技の跳馬などでも、前方4回転中返りだろうが、身伸2回宙返り2回捻りだろうが、着地でしりもちをつけば、減点されてしまい、着地が完璧にきまった3回宙返りに負けてしまう場合だってある。

最後の現象のインパクト、その後のテーブル上の状態、演技者の姿勢、表情、それらがすべて一体となって、マジシャンは演技が終わるのである。それが一枚の絵になったとき、観客は反応するのである。

いままで、多くのマジシャンの演技を見てきたが、このオチが落ちないマジシャンが意外といることに驚いている。私もそんな部分を持っているので偉そうな事はいえないのだが。これは、現象さえ成立すればマジックは成立すると思っていたりする現れではないだろうか。無論、現象は成立してナンボのマジシャンである。しかし、観客には現象以外にもテーブルやそれ越しにマジシャンを含めて見ているわけであるから、それらを意識して、マジックを終えなければ、マジシャンは格好良くないのである。

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