theory


マジックの大会でお会いした方の何人かに、このサイトで書かれていることをまめに読んで参考にしていただいているというお話をお伺いした。非常にありがたい事である。書き手冥利に尽きるとはこのことであろうか。

今回は、その大会で感じたある事に関して触れたいと思う。

私にとって、5分にも満たない一つのマジックと30分のマジックショーの考え方は同じである。30分のショーに起承転結があるように、1つのマジックにも起承転結は存在している。30分のショーに複数のマジックが含まれている場合、ココのマジックに必ずしも派手でインパクトのある「結」があるわけではない。それはやる演目の違いだけでなく、意図的にエンディングを控えめにするなどの配慮がある。

これは自分のマジックを終えた時点での観客の満足は、それが1個のマジックでも30分のマジックショーでも同等であるべきと考えているからだ。無論、これは私の理想論であって、私が日々行っているマジックがそのようになっているという解釈ではない。あくまでも理想として日々心がけていると知っておいて欲しい。

起承転結というと、何か物語を想定してしまうが、より演技に落としやすい言葉を使うのならば、それは「抑揚」となるだろう。抑揚の意味を大辞林第二版で紐解くと、

よくよう ―やう 【抑揚】
音声や音楽・文章などの調子を上げたり下げたり、また強めたり弱めたりすること。また、その調子。イントネーション。

となっている。

マジックの演技は抑揚を必要としている。無論、淡々とした演技があっている演目もあるが、そうではないものもある。具体的な例をあげるとするならば、ワンコインルーティンなどはその代表的な例だろう。

ワンコインルーティンは最大公約数で説明すれば、1枚のコインが消えたり、出たりする現象をひたすらに繰り返すマジックである。言うならばサーストンの3原則「同じマジックを見せない」に抵触するのではと思う部分もなくはない。まあ、これを言い始めると昨今のマジックのいくつかは引っかかってしまうのだが。

多くのマジシャンのワンコインルーティンは、コインの消失に変化を求めるために、その消失方法を変えている。左手に持っているコインを右手に移して消したり、もしくは片手で持っている状態で消したり。これは改善方法の一つと言えるだろう。

しかし、コインの消し方は、ただやり方を変えるだけでは、あまり効果がない。なぜなら、消し方の違いを理解できるのはマジシャンだからであり、一般から見ればすべては同じようにコインが消失しているに他ならないからだ。

優秀なコインルーティンのいくつかを考えてみると、その手順には巧妙な意図が隠されているケースが多い。一回目の消失を見て、観客がその方法に疑問視する考えをもったとして、2回目の消失はその疑問を打ち消す方法で消失させる。また、出現にしても、観客が意図しない場所から出たり。

1枚のコインが、最後は大きなコインに変わるのも、観客の創造しない結末だからこそ面白いのである。あれはコインが大きくなるから不思議なのではない。観客が想像していない現象だから受けるのではないか、と私は考えている。

さて、問題の抑揚だが、私はこれを台詞と動き、両方に取り入れるように心がけている。つまり演技事全体が同じペースなのではなく、速いテンポで展開することもあれば、逆にゆっくり、じっくりと見せるタームもある。こうすることによって、観客の緊張感や感情をコントロールし、エンディングに向け最適な精神状況を作り上げる、というわけだ。

私の抑揚に対する考え方を最も具現化しているのが、私のアンビシャスカードのルーティンである。

私はアンビシャスカードのルーティンはスローパートとファーストパートが存在している。中盤の現象は非常に早い口調で、手元も観客が起きている現象を理解できるギリギリの早さで行う。観客から見ているとアレヨアレヨという間に現象が起き、一瞬あせる。その後、そのスピードからぐっと落としたスピードで一度だけ現象を発生させたあと、普通のスピードに戻る。

スピードの緩急は観客に同じ現象でも新鮮さを与えることができる。ステージマジックにおけるミリオンカードなども、その緩急によって観客に与える印象が違うのと同じ事である。

台詞の強弱も同様。声を強める部分、逆に弱める部分など抑揚を効果的に使うことで、観客に一定のリズムを与えず、緊張感と高揚感を与えることができるのである。

この辺の考え方はアクション映画やホラー映画の手法に似ている。動きやカット割、音楽の抑揚によりシーンに対して躍動感や恐怖感を高めるというのは、マジック以外では普通に行われている事だ。

抑揚をマスターすると、マジシャンの腕は飛躍的に向上したように見える。あくまでもこれがマジックをより効果的に見せる調味料であるので、肝心のマジックが下手であれば、あまり意味は成さない。

※言い訳 この文章は昨晩書き上げたのだが、さきほどネットを見ていたら、秋元正氏も同じ内容で日記をかかれていた。決してパクったわけではないのでご容赦いただきたい。

19日は、町田までマジックの大会に参加しに行った。多くの話のネタを仕入れつつ終わったので、それまでにまとめていたネタと合わせながら、一つずつ精査していきたい。

マジックを長く続けていると、多くなるのは自分が演じたマジックはどうですか?というアドバイスを求める話である。これは長くやっていなくても、優秀な演技をするマジシャンが多かれ少なかれ遭遇するシチュエーションと言えるだろう。

私の場合、どうもアドバイスを求める人は多くない。どうやら怖いらしい。いや、言い方が怖いのではなく、存在が怖いようだ。たしかに無表情だし、目も据わっている。目が据わるのは、額にしわが寄りやすいので、それを出さないようにしているだけなのだが。まあ、そんな事は回りの人は知らないので、いつも不機嫌に見えているようだ。決してそんなことはない。

そんなアドバイスだが、私はアドバイスに関しては非常に神経質に取り扱うようにしている。以下の私の考え方は決して正しい姿勢ではなく、私自身が置かれている環境やその他諸々を考慮した結果、自分の考え方として定着しているものである。

私の中で、アドバイスは段階的に、助言と意見と参考の3段階に分かれている。これらはアドバイスを求めている人に応じて変えているという事を知ってもらいたい。

アドバイスというのは、影響力のあるものだ。それ一つでそのマジシャンの中に形成されている知識や技術、考え方すら左右しかねないという事を私は神経質に取り扱っている。

私が、原則的に助言をしない。そのマジックはココをこうしたほうが良いという言い方は、そのマジシャンが誰を師事しているかを理解した上で、その師事しているマジシャンと相反する考えを導入する可能性がある場合を多分に含んでいる。そのため、その師事しているマジシャンの意図が正確に伝わっていない場合のみ、訂正するようにしている。これは私の意見の非常に根底にあるものだ。

うかつなアドバイスをして、彼がそれを受け入れてしまうことによって、後に師事しているマジシャンとのやり取りで、再び修正されてしまうのであれば、それはちょっとした遠回りになってしまう。私はそれを避けるようにしているという訳だ。

具体的な解決方法を聞かれた場合は、意見を述べる。私ならこういう解決方法を使用するというものだ。これは技術的にも会話的にもどうように伝えている。しかし、これらはあくまでも私がそのマジシャンの演技をするならばこうするという事であって、それが最善であるとは述べない。あくまでも私なりの解決方法だということが前提だ。

もっと抽象的な話の場合は、参考になる話をする。これは同じようなシチュエーションに置かれた時に私はこのように解決した、このように考えるなどの意見だ。これはそのままではまったく利用できない。私の話の内容を参考に、彼自身が解決しなければならないからだ。

先般、あるマジシャンが演技をしたのを見て、あたまを抱えるマジシャンがいた。どうやらかなりダメらしい。私も同じように感じた。その後、そのマジシャンは、彼を呼び止め、具体的な説明をし始めた、「その動きは、こうしなきゃダメだ」といった内容だった。

私はこれが出来なかった。なぜなら彼がどういう経歴でマジックをしているかを理解しており、そのダメな部分は,そっち側ではヨシとされている部分だからである。そこを修正したとしても、彼は後に、「そうしてはダメだ」と言われるからだ。私がもし彼にアドバイスを求められたら、「そういう見せかたもあるが、全部が同じでは飽きてしまうので、抑揚をつけるのにこうするのも取り入れてみるのもいいんじゃないかな」という言い方になるだろう。

また、私は技術面でのアドバイスはするものとしないものが分かれている。技術的に進化を続けているものに関しては、私は最新情報を得ていないものに関しては決してアドバイスをしない。逆にある程度、理論が構築されて固められているものや、その技術のベーシックな部分に関してはアドバイスをする。そのアドバイスは的確に出来るという自負がある。まあ、私に技術的なアドバイスを求める人はあまりいないのだが。

重要なのはアドバイスはどんなものでも、上から下に伝えるものはそのマジシャンに多大な影響を及ぼす可能性があるということだ。適切なアドバイスや意見でなければ、実はそのマジシャンの将来に多かれ少なかれ影響を与えているということを、アドバイスする側のマジシャンは心に持っていなければならないのではなかろうか。

022「マジックの不思議さの不思議」によせられた掲示板の書き込みは興味深いものである。

マジック経験者が一般人の視点を失わないことは可能か、
失わないためにはどのようなことに気を付ければ良いか、
などを掘り下げてもらえるとうれしいかと存じます。

前章の焦点の一つは、まちがいなくこの話である。マジック経験者が一般人の視点を失わないことは可能か、というものである。

まず、私の考え方から述べるとするならば、この質問に関して言えば、答えは「NO」である。すなわち、マジック経験者は一般人の視点をもつことはできないというものだ。これはより詳しく書かなければ誤解されそうだが、概ね、間違っていない。問題の本質自体が「NO」でもあるのだが、これは後半で触れよう。

マジックの本質、すなわち、やり方や技術、しかけなどを知るという事は、側面から見れば、マジックを知るという事になるが、マジック全体から見れば、マジックを全て知っているという事にはならない。

私が述べる一般人の視点をもてない、という言い方は、それぞれのマジックに対するかかわり方、棺おけにどの位、足をつっこんでいるかによって、異なってくると言えるだろう。

たとえば、テンヨー社のダイナミックコインだけ買ったことがある人がいても、この人が一般的な視点ではないかというと、そうでもない。彼にとって、マジックの本質はダイナミックコインだけなのだから、その他のマジックにおいて、彼は一般人と同じ状況下にある。

ここで語るマジック経験者というのは、匙加減が微妙だ。ある程度のマジックを経験し、自分でも演技をする。特にカードマジックやコインマジックの経験者、ステージマジックなども含まれるかもしれない。手品コーナーでテンヨーのダイナミックコイン等に代表されるアイテムを購入している人は意外と含まれないケースがある。

このような人と実際にマジックを演じて、その内容に関してディスカッションをしていると、意外な共通甲にあたる。それは、マジシャンでなければ気にしない部分を気にして、マジシャンだから気にしない部分を気にしないという点だ。

具体的な例はケースバイケースなので、挙げづらいのだが、私なりの例を挙げてみよう。

例えば、テーブルにおいた、2枚のジョーカーの間に観客のカードがはさまれる事によってカード当てをする、というサンドウィッチトリックのようなものがあったとする。このマジックを語る際に、彼らは2枚のカードに観客のカードをはさまなければならない、そのムーブに関しての不自然さは細かく議論するが、テーブルに置いてある2枚のジャックをデックの上に1度載せて「あらため」をするという動作が不自然であるという議論はしない。

マジックはいくつかの技術において「必要悪」が存在している。4枚のジャックを改める際に、デックの上で行ったり、たった4枚のカードなのに広げず、1枚ずつカウントしてあらためるなど、これらはマジックにおいてだけ存在する「必要悪」といえる。

私は、これらの動作を否定しているわけではない。しかし、これらが動作において不自然な可能性を秘めている事に目を背けてはいけない、という事だ。

マジックを知るということは、このような点からしても、大きな意味で「一般者の視点」とは異なるといえるだろう。

私の挙げる「一般者の視点」とは、このように動作上不自然に思うかどうか、というポイントではないのだが、多くのマジシャンは「一般の人はそこでそういう風に動くとおかしいと感じる」という話をする。しかし、これらの大半は「そんな事を一般の人は気にしていない」というのも事実だ。

無論、全てではない。大半である。

では本来の「一般者の視点」とは何かといえば、これは大きな幻想である。というのが私の持論だ。

例えば料理を例にしてみる。どんなに優れた調理技術を知っている料理人だって、人が作った料理を食べたときに、「おいしい」と思い、感動する事がある。調理方法などを考えたり、素材のウンチクを語ることもあるかもしれないが、「おいしい」というのは、調理知識の有る無しに関わらず、共通言語であり、全ての人が持って然るべき感覚である。

マジックも同じだ。どんなに優れた技術や仕掛けを知っているマジシャンだって、他のマジシャンが見せた演技に「面白い」「不思議だ」と思い、感動する事がある。

つまり、マジックを知っている人も、知らない人も、マジックを楽しむ感性は共通なのである。知識を有している分、その楽しみ方が違う場合があったとしても、良い物を良いと感じるのは人によって変わるものではない。

すなわり、「一般者の視点」という表現は幻想の産物である。という事だ。料理人が料理できない人を指して「一般者」とは言わないように、マジシャンもマジックが出来ない人を総称して「一般の人」というのは、あまり意味を成さないのでは、と私は考えている。

つまり、最初にあった質問

マジック経験者が一般人の視点を失わないことは可能か、

に関して言えば、

マジック経験者がマジック未経験者と同じ視点を持つことは難しい。
しかし、
マジックの経験の有無に関わらず、マジックを楽しむ視点に違いはない。

という答えになる。

しかし、マジック経験者は自分の意識でこの視点を歪めているケースが多い。
それは、先ほどの技術における「必要悪」の認知や、「一般の視点」という考え方など、
様々である。

今回は「一般者の視点」の幻想を提唱してみた。
次回のTHEORYの章では、「素人」という言葉の核心に触れてみよう。

ショーやプライベートでマジシャンではない観客にマジックを見せていると、意外と多いのが「マジックの現象って目の錯覚なんでしょ?」というご意見だ。昔は「タネ(もしくは仕掛け)があるんでしょ」の方が多かった気がするのだが、ここのところ、前者をよく耳にする。

辞典を出すのが面倒なので、goo【国語辞典】を引用すると

さっかく さく― 【錯覚】
 (名)スル
 (1)事実とは異なるが、そうであるかのように思うこと。思い違い。勘違い。
   「まるで外国へ行ったような―を起こす」
 (2)〔心〕 あるものについての知覚が客観的事実と著しく食い違うこと。→幻覚

とある。つまり、目の錯覚というのは、目が事実とは異なるものをそうであると思い込んでいる。という意味合いになる。おそらく観客の言う錯覚はこれを指しているのだろう。

私はこれを非常に興味深く思った。果たしてマジックは目の錯覚なのだろうか?という事である。

私にとっての答えは「NO」である。おそらく皆さんにもそれぞれの答えがあるに違いない。私のマジックにおける錯覚の答えは以下のとおりである。

観客が見ているマジックの現象は、その瞬間、そこで起きている間違いなく現実のものである。つまり、錯覚ではないということだ。しかし、同じ時に、同じ物を見ているマジシャン側の現実とはイコールではない場合がある。つまり、マジシャンと観客では見ている現実が異なるのだ。

その差はマジックによって様々な要因がある。技術、ネタ、仕掛け、角度・・・言い方は色々あるだろう。このマジシャンと観客それぞれの現実の誤差。これが「マジック」であり、観客における「錯覚」となる。

なので、観客の思い違いでもないし、勘違いでもない。観客が見ているものは紛れも無い事実である。という事で、私はそれを錯覚と呼ぶのは難しいのではないかと考えている。

この話は、マジシャンや小難しい話が好きな人には非常に受けるのだが、ここを読まれている読者はどうだろうか。

若干、MOVEの章に入るべき内容だが、私の中では理論立てがかなり終わっているので、ここで取り上げさせてもらおう。

私の個人的な感覚だが、マジックにおける技術は文章で伝えきるのは難しいと思っている。どんなに名文であろうと、すぐれた解説者であろうと、元の技術が100とするとその意図は85しか伝わらないと考えている。残りの15はその文章を読んだ読者の想像力に頼る部分がある。

同じように、ビデオレクチャーにおける技術の伝達も、85とは言わないものの、95までしか伝わらないと考えている。それはビデオは一方通行のレクチャーで、本人の意図を100%伝えきるビデオは無いと考えているからだ。正確に言えば、伝える側は100を表現していても、聞く側の理解力に影響される。より100に近づけるためには、どこかに対話の場が必要である。という考えだ。

対面の技術伝承は、限りなく100に近いかもしれない。しかし、Aさんが考えた技法をBさんに伝えた段階で、そこにはBさんの思想なり考え方が多少なりとも入る以上、100の伝承は限りなく100に近いが100には成りえない。と考えている。

私は数年前、3,4年に渡ってマジックアイテムの解説書を書いていた経験をもっているのだが、その頃から、この課題を持ちつづけている。手順を伝えるのは比較的簡単だ。それは設計図であり、動きの順序を説明することに終始することで解消される。しかし技術はそう簡単にはいかないと思っていた。

技術には手順以上に、開発者の思想が含まれている。なぜそうするのか、似ていてもそれとは違う理由、考え方など言葉にすべて起こすことは、私は難しいと考えている。ケースバイケースのものもあり、その全てのケースを起こしきることは無理だろう。だから技術伝承は大きく括り「理論・概念」として伝承していく。

つまり、多少の差はあるが、技術は伝承することに本来の意味を失っていくものである、というのが私の考え方だ。つまり、100で始まったものは90になり、その90の90%になり、それの85%・・・という風に目減りしていく。

しかし、これは技術が消えていくという意味ではない。そこに新たな要素が加わる。それは伝承された人間の「理論・概念」という新しいエッセンスだ。

100から95になった技術に聞いた人間の5の考え方が加えられ、技術は再び100になる。ということである。なので、伝承を続けていっても、技術は常に100の形を保ち続けるわけである。

技術の進化はここがベースになっている。退化もまた同じである。聞いた人間がどれだけ汲み取り、そこに何を加えるか。マジックにおける技術はそれによる衰退と進化を繰り返しているような気がする。

私がレクチャーノートを書いていたときに、地方で購入された方が上京する機会があった。その際に、私は自分のレクチャーノートの中の演技を見せた事があったのだが、彼はそのマジックはノートに乗っているものと違う。と私に言った。
そんなはずは無いのだが、彼に演技を見せてもらうと、理由がわかった。それはそこに出てくる技術が同じ名前の技術なのに細部に異なるもので、結果として見栄えや動きにいくつかの違いが出たのであった。

これは技術自体の伝承の違いだ。その彼は地方で本だけで独学で覚えてきたため、過去に呼んできた本で理解した内容が自分にとっての技術の全てであった。そのため、本に書かれた意図を取りきれなかったようだ。なので個々の技術を見たときに、不自然なもの不具合の起きるものがあった。

私は、マジックにおける技術の伝承はマジック自体が抱えている大きな課題と思っている。その変化は物凄い小さいものだが、少なくとも100年前の技術と今の技術を比べると、進化・退化は別にして変化しているのは事実である。同じ技術は様々なマジシャンを通じて、理論や考え方が加えられ今に至っているのだ。

つまり伝承される側の質が仮に低下すれば、技術は衰退していく可能性を持っている。逆もまたシンなりだ。

このマジックにおける技術というのは、老舗飲食店における「秘伝のタレ」に似ている。代々引き継がれてきたタレを守る二代目、三代目というやつだ。製法を受け継がれていっても、そこにはタレのもつ歴史が必要。しかし、二代目が手を抜いたりすればパーになる。さらなる進化をさせるために、新しい事を加えれば、大成功することもあるし、やっぱりすべてパーになることもある。

重要なのは先人達の知恵が尊い物であることを理解すること。そして、それを時代に受け継げる事ができるか、という事だ。私は今を生きるマジシャン全員にその義務があるのでは、と考えている。

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