8月 1998


さて、将棋にはプロがあるのは御存知だろう。有名な人だと、羽生四冠王とか、中原永世十段なんてとこか。大阪にいく神吉六段あたりがメジャーか・・・タレントとしてだけどね。女性だと、林葉直子なんて人もいたなぁ。

この将棋のプロ、通称プロ棋士と呼ばれる職業は、どうやってなるの?というと結構知らない人が居る。

ゴルフは至極簡単である。年に2回行われているプロテストで規定の成績を残せばいい。上位何名とかだよね、たしか。年齢制限もないし。ところが将棋の方はちと面倒である。

将棋は、プロになるために奨励会というところに入会しなければいけない。入会条件は、年齢制限(中学生以下でしたっけ?)とプロ将棋指しの門下であること。そして入会すると、クラスが分けられる。基本的に将棋の強さを計るランクは、段と級で表記される。10級から始まって1級まで、そこから初段、二段、三段とあがっていく。この10級から三段までが奨励会と呼ばれる。

彼らは互いにプロを目指す同士で将棋を指して、星の取り合いを行う。そして規定の勝率もしくは連勝することで、段級を上げていく。つまり周りのライバルを押しのけて上に挙がって行くのである三段に達すると、今度は三段の中でリーグ戦を行う。そして二十数名で行うリーグ戦で、2位までに入った棋士が、晴れて4段。つまりプロ棋士になるのである。

東西2名ずつ。年に4名がプロになれる。同率などが無い限り、この人数に特例は存在しない。「とても強いから君は今日からプロね」というのは、基本的に存在しない。全てのプロは、この百数十名というライバルを蹴落としてプロになっていくのである。

将棋界では、四段からをプロ棋士として認められ、給料や将棋の講師などの収入が入る。それまでの収入は雀も泣けないようなもの。よってハングリー精神は否応もなしに身につく。さらに、奨励会には会員の年齢制限がある。よって何歳までに何段になっていなければ、退会しなければいけないというものである。

今は・・・31歳までに四段にならなきゃいけないんだっけ?

(99/08/10追記)
現在、このシステムはかなり改正されているみたいです。詳しくはこちらに奨励会規定が書かれていますが、 満23歳の誕生日までに初段、満26歳の誕生日までに四段になれなかった場合は退会となるらしいです。また東西に分けてのリーグ戦ではなく年二回のリーグ戦に変更になってますね、どちらにせよ年4名しかプロ棋士にはなれないようです。

小学生で奨励会に入会して、最終的にプロになるのは、大方が20歳を超えてからというのが相場の奨励会。実は奨励会時代は平気で8年とかを過ごす人がいる。ようはむちゃくちゃ厳しいのである。

ではこの話、何に結びつくのかというと、当然マジックである。前項で理解できるように将棋界では実力重視。金があるとかは基本的に関係が無い。優れた環境を持つ事は、優位になる条件かもしれないが、やはり9×9の桝目で行われるゲームである。最終的には努力をしてものだけが、栄光を掴む事が出来るのである。年に4名以上の人間が入会してくる奨励会で、年に4名しかプロになれないのだから、基本的に全員がプロになれる訳ではない。ただ長くやってれば、はい今日からプロですよ、とはいかないのである。

昨今のマジック界におけるマジシャンの卵を見ていて思うのは

ハングリー精神の無さ

これといったプロの規定というものがないマジック界ゆえ、プロになるのは簡単なのだが、世界に通用する真のプロになるのは、想像を絶する努力が必要である。ほんの少し前にもそんな話をしているのだが、やはり新人とか卵系の人にはもう一回考えてもらいたい

自分が何故プロをめざしているのか?

そして

目指すための努力は足りているのか?

ということを

今日は日本テレビで放映していた「あぶない刑事」を見ていた。私自身はこの「あぶデカ」の昔からの大ファンである。映画よりもテレビシリーズの方が基本的には好きだったのだが、うむ、映画でも何でもいい。見れて幸せ。そもそもメンバー全員歳をくってるので、さすがに今回が最後といわれているし、最後だろう。
足腰弱っているタカとユージはもうみたくないかなそう思う。この辺のファン意識というのは複雑。

往年の素晴らしい時代を見ていたファンが、歳をくってしまったアイドルや、タレント、俳優をみたいと思うか、どうか…これは永遠の課題なような気がする。

マジシャンも似たような命題を抱えている。つまり歳に応じて、自分がどのように変化していくのか?という話である。僕らは、それぞれの歳に応じて様々なキャラクターを構築している。20歳くらいで顔立ちもすっきりしてれば、アイドル風のキャラにもなるし、逆に20歳でも老けていれば、落ち着いた系のキャラを構築する。その辺は、当初は本人の持つ素地がベースになる。

だが、ある程度演じるという力がついてくれば、それは自由自在に変化させる事も出来るだろう。

私の場合、昔っから老け顔である、いや、もっとストレートにいうと、

悪役顔である(ー ーメ)

また、性格が斜陽系・・・つまりひねているのか。演技する時も、気持ち斜にかまえた演技がベースになっている。観客に媚びを売らないというか、生意気というか、さいかの作り出すワールドに、お客さんをひきずりこむタイプ。では、今後もこのままいけるのだろうか?というと

答えはノー。

やはり万人に受け入れてもらえるスタイルではない。これはこれ、なのである。もう一歩向こう側に、つまり階段を上がるためには素直なキャラクターというもう一つの仮面を作りだす必要があるのである。いずれ、出来るとは思うのだが。今のところ自分の中にそれは見えてこないし、それでも必要なことは痛切に感じている。実際には大事な命題かもしれない。

(99/08/11追記)
キャラクターというのは非常に重要でありつつも一辺倒ではないというのが勘違いしてはいけない部分。例えば二枚目が三枚目的な演出をすることで、観客に笑いを提供することはマジシャンだけでなくタレントでも往々にしてあるシチュエーションであるし、また、そんな中から新境地を開拓していくというパターンも決して少なくない。
どうように、三枚目的でコミカルな演技を主流にしている人が一箇所だけシリアスな演技をする事も、他のコミカルな部分を際立たせるためには有効な手法であることを忘れないで欲しい。
また、自分がどういうスタイルになりたいかというのと、自分がどんなスタイルが適しているのかを常に分析し、調査してその存在位置を正確に認識している必要がある。自分のキャラは一つである必要はないし、自分の要望が必ず最適でないというのも残念ながら事実である。まずは何か一つキャラを立てて、それの良し悪しを冷静に分析していくのが手っ取り早い方法ではなかろうか。

知っている人は知っているのだが、私は大のプロレスファンである。そんなこともちと関係しているのだが、昨今のプロレス界では最近、次世代を担う超大型新人というのが、ようけ出ている。さすがに世紀末という事なのだろうか21世紀を代表するスター選手候補は、この時期に出揃うのが世の常ということになる。ミレニアム万歳というところか…

具体的な名前を挙げるならば、アルシオンの浜田文子(グラン浜田さんの娘)とか、同じくアルシオンの秋野美佳、Jd’の神田奈々子、LLPWの八木淳子など…おそらく、ここをご覧の方の多くは知らないだろう。

無論、新人というのはイツの世にも出現する訳だが、この四人はちと違う、実力的にはまだまだではあるが、デビュー戦で観客に「をを!」と思わせたり、入場シーンや、マイクアピールが新人離れしていたり、とにかく度胸がある。という意味で、この四人は女子プロレス界でも注目度の高い新人なのである。

一昔前の・・・そう、まだ全日本女子プロレスしかないころの、新人のデビュー戦といえば、こりはもう、惨澹たる試合だった。観客だって、ついつい温かい目で見てしまう。ようは、「これから頑張るんだよ」系の試合になってしまうのがもっぱらであった。ここのところは、そうではなく他のベテランの試合に優るとも劣らない試合が見れる時が出てきたのである。

で、この話が何に繋がるかというと、最近、マジシャンの世界においても若い世代がマジシャンになりたいという夢を抱えて、私の師匠のところの門を叩くケースが増えている。世代で言うと小学生くらいから大学生くらいまでの年頃だろうか。これは、本当にここ数年の話である。元来、芸事の世界なんてのは目立つスターが存在しなければ発展はありえない。憧れるスターがいるからこそ、それを目指して、その世界に身を投じる人達が出てくるのである。

それぞれのマジックの団体は、それぞれにスターというか、看板マジシャンを抱えている筈である。この看板の魅力が、すなわち団体の発展や、新しい裾野の開拓に関係する。ここでいう看板というのは、いわゆる師匠を指していない、年食ったじじいに憧れて入る人なんてのは、実は希少価値的存在である。

その師匠が全盛であれば、話が別だが、ある意味で一線を退いている以上は、その人に対する直接的な憧れではなく、
素晴らしいマジシャンを育てた名トレーナーとしての憧れ、すなわち間接的な憧れ出る事の方が正常である。つまり、この人に師事すれば、努力すればきっと素晴らしいマジシャンになれるという希望を与えてくれる人ということになるだろう。

年食ってんのに、いつまでも現役を通しているぢぢいの場合、この人は素晴らしいけど、では、この人は下を育てる能力を持っているのだろうか?という猜疑心は、どうしても存在する。よって弟子が付く事になったとしても、結構うまくいかないパターンもあったりする。言い方を変えると、弟子とはいえ育ってしまえばライバルである。自分が現役である限り、人を育てる、という点に関しては自分のポジションというのは、非常に微妙である。自分の食い扶持を奪う可能性を自ら作るなんて言うのはなかなか酔狂な話である。だからといって完全に引退してはいけない、しかし現役バリバリでもいけない、このバランスは、おそらく自分がその歳になって、そういう立場にならないと、分からない話かもしれないな。うん

話がそれた。

最近のマジック界における新人を批評する程の権限も何もないのだが、どうもここんところの新人には

パワーを感じない時が多い

自分の将来を成型することができるのは、自分でしかない。こんなことは初めから分かりきった事なのである。その割には、師匠とかに甘えてしまって自己鍛練が弱かったり、アピールとか積極性が弱く見える。それは練習してるかどうかという問題ではない。

1日24時間しかない自分に与えられた時間を、自分が世界で名を残せるようなマジシャンになるために使っているのか?という話である。いい方を変えれば、プロマジシャンに向けての修行をしているだけ、そういった一流の中にいるだけ、マジシャンを目指しているという意識だけ、ただそんだけで、

満足してないか?

という話である。

女子プロレスを例に挙げたのは、そこの差を感じたからである。彼女たちは、デビューはしたものの、まだ実力的にはまだまだである。しかし、デビューした以上は、彼女たちはすでにプロレスラーであり、彼女たちの試合を見るために、数千円、数万円の金を払って試合を見に来る観客が、そこに存在している訳である。彼女たちは、そこが理解できている。だから全てにおいて一生懸命にするのである。ただ、一生懸命するだけではない、あくまでもプロなのだから彼女たちは自分を大きく見せる。観客に驚きと感動を提供する。慰めや、同情の視線を求めていない。

無論、彼女たちは思い上がっている訳ではない、今現在、自分達が出来る最大限の力を、最高のエンターテイメントとして見せる事に一生懸命なのである。だから、観客達はその一生懸命なエンターテイメントに酔いしれ、感動する事が出来るのである。新人故の弱さが甘えにならない、それが新人に必要な事ではないのだろうか?

この話は、どこの団体とか、誰とか、という話ではない。実際のところ、マジックに限った話でもないので注意して欲しい。こういう話書くと

「さいかさん、昨日の日記って僕ですかぁ?(泣)」

とか、誰からか言われそうで、ちと恐い。そんな時の私の答えは至ってシンプルである

「みんな、だよ」

さて、前回のエッセイはマジシャン関係各位にご好評というか、波紋をなげかけているというか、

そんなはっきし書いたら、
誰が書いた本だか、わかっちゃうぢゃん(笑)

というお話もありつつ…ちなみに日記書きの方からも魔女狩りに関してのメールを頂きました。もともと魔女狩りの対象者というのは非常に広かったようです。けっして俗に言う魔法を使っていたものだけではなく、宗教側にとって、真理に反するもの、もしくはその可能性を持っているもの、よーは、邪魔者をひっくるめて排斥しようとしたわけです。

この時代におけるマジックというのは、本当に魔法的扱いでして、いわば今よりも不思議な力、神秘性を帯びていたという事です。

(98/08/04追記)
数年前から日本において派生したMr.マリックに代表される超魔術ブームなどは神秘性という点では、非常に中世の魔法的扱いというものに酷似しているのではと考えた事があります。しかし、中世もおそらくそうだったと思うのですが、超魔術を名乗るすべての人間が優れた超魔術師だった訳ではないようです。そこら辺のマジックショップで高値で扱われている商品をただ演じて、さも超能力のように見せかけていただけという方の方が多かったような気がします。流行っているからという名目だけで超魔術的演出に走り、不思議であれば良しとする風潮は、不思議なものを斜に見る日本文化にはピンポイントで効果を発したものの、最終的に生き残れたのはエンターテイメントとして優秀だったマリックさんだけでしたしね。他の皆さんは何処へ行ってしまったんでしょうか?

こういった時代にヨーロッパで派生したマジックの教本は、そういった魔法的な現象の教本ではなく、カードや、コイン、またカップとボール等のスライハンド(手先を使用した)マジックが大半であり、以降のヨーロッパではこういったマジックが多くなります。現在のヨーロピアンマジックにスライハンドスタイルが多いのは、こういった時代背景があるのかもしれませんが、そこまで調べきってないので、鵜呑みにしないように。また調べときます。

この「マジックと手品」の話ですが、今日、私の師匠等でディスカッションしているなかで、興味深い話を仕入れましたので、ちとここで書きましょう。もともと日本で「マジック=手品」にしてしまった人、つまり諸悪の根元がどこかにいるはずなのですが、ここでは、それを突き止めるのは、今のところ難しいのでまずは辞書を見てみましょう。英和辞書で「Magic」をひくと、和訳の第一候補は魔法なのですが、第二か第三候補になると、かならず「手品」という言葉が入ってます。そか…

てめーが諸悪の根元か(笑)

いえ、違いました。っていうか、違うと思います。これも確認は難しいですね。前回の話でわかるかどうか不明ですが、
手品≠マジックです。しかし辞書では、この二つは等号されている訳です。別々の意味だった言葉が、どこかで同じ意味にされているということになるわけです。

これは…

フィリピン人女性を「家政婦」と翻訳するどこぞの国みたいである。

よーは無知だか世間知らずだか、調べるの面倒くさい人が、そのまま自分の感覚で書いたという事になるのでしょうか?いいえ、違います。よーは、二つは違うという事を説明できる日本人がいなかったのでしょう。

この手品=マジックは多大な影響があります。皆さんは手品というと、程度の低い芸能のイメージを少なからず持ってるかもしれません。貴方はどうですか?ちょっと小馬鹿にしてません?

どうせ、ネタがあるんだろ

とか・・・・ちょっと身に覚えがありませんか?数年前の話ですが、こんな一節がありました。

この間来日して、ちょっとした話題になりましたデビットカッパーフィールドですが、依然にも来日しているのですわ。その際、彼の日本でのショーのタイトルの話、元々海外での公演の際のタイトルは「The magic of David Copperfield」というタイトルだったんですが、これを聞いた日本サイドのプロデューサーが、

マジックって手品だろ?なんか貧相だから・・・イリュージョンにしよう、そうしよう
一部アレンジしてますが言いたい事は変えてません

で、日本側ではマジックショーのタイトルを「The illusion of David Copperfield」にしようと、打診しました。いや前宣伝は勝手にこのタイトルにしたんだっけ?よー覚えとらん。この話を受けてDavidは、憤慨してこう言ったそうで

私のは、イリュージョンなんていう格の低いものではない。最も崇高なマジックだ。
イリュージョンは幻想を意味している、つまり幻であり、実在しないものだろう?
私のマジックは魔法であり、そこに確かに存在している。
確実に存在している魔法を幻というなんて間違ってるよ。
一部アレンジしてますが言いたい事は変えてません

実際にそのとおりでして、マジックとイリュージョンとを比べた時に、単語としてはマジックの方が格が上の意味合いが強いはずです。かたや幻であり、かたや魔法・・・一方はそこに見えていても存在しないものであり、もう一方は存在し得ない出来事ではあるものの確実にそこに実在する現象ですから、これは至極ごもっともということになります。しかし、日本においては手品=マジックが根強く浸透しているために、マジックというワードの価値はかなり低いイメージがあるのでしょうか?これは至極残念なことでもあります。しかし、マジックが崇高なモノであるからといって、手品も崇高ではないですよ。だって、

「The trick of Dabid Copperfield」

なんていうショーだったら、きっとみんな見にいかないでしょ?

マジックという言葉は、最近多くの場所で使用されるようになってきています。例えば、シネマジック(cinemagic)とか羽生マジック(将棋)なんていうふうにこれらは、魔法と言われるに値する奇跡のような映像技術や、指し手に尊敬の念を込めて呼ばれているのでしょうから、もしかしたら日本人の中の「MAGIC」は、少しづつですが変わってきているのではないでしょうか?

いやー、今日も長くなってまいりました。オチもなく、終わりに向かうのですが、この手品とマジックの違いを説明するのはとても大変です。特に、いざショーを見せる、という時にふられたりしたら、こりは、非常に困ります。あと番組やライブの企画ミーティングの時もそうですよね。仕事する上では面倒くさい、説明してもしきれませんからね。まさか、マジックショーをする前に黒板出してきて授業を始める訳にもいきませんし。

だからマジシャンはショーを見せるのです。マジックと手品が違う事、それはマジシャンが見せるマジックを見ると一番納得できるのです。言葉にならない感動や、凄さを、五感で感じ取る事が出来る。マジシャンの5分間のショーは、この日記2日分以上に、あなたに伝えたい事が伝わるはずです。だからマジシャンはマジックショーを見せます。

過去の遺物が犯した、「マジック=手品」という絡み合った毛糸を、ゆっくりと解くかのように、マジックショー1回が、ひとつづつ解いていくのです。いづれ、まっさらな毛糸に戻る事を信じて

以前、マジックと手品の違いに関して力説したのだが、読み返してみたら・・・良く分からないし、あれから少しは考え方も変化してきたので、あらため書き残すことにしてみる。

そもそもマジックと手品は元になっているものが違うのではなかろうか、と。

マジックの起源は中世ヨーロッパに存在した魔女と言われています。世の中の常識に反した現象を次々と起こす事の出来る魔女を、忌み嫌った事によって魔女狩りが生まれます。あれはキリスト教が宗教よりも影響力が大きくなりつつあった魔女を警戒して弾圧しようとしたんだっけな。たしか。どちらかというと魔女狩りは政治色の強い社会現象だったのかな。

この時代に世界で最初のマジックの本が生まれているのは、前回も書きました。筆者は、当時の魔女。使用したカードは確かタロットカードを使用したものだったよな気が…具体的な内容は伝わってないのですが、その現象は今にも通じるものらしいです。

(99/08/03追記)
当時の魔女と言われる魔法使いの面々が実際に魔法を使えたのかマジシャンのようなテクニックや仕掛けのあるものを使用していたのかは、定かではありません。当時出版された「マジックの原理」と呼ばれる本は、魔法使いが自分たちの魔法は誰にでも出来る事を証明するために作られたのかもしれませんし、本当の魔法を隠すために捏造したものかもしれません、どちらにせよ真相は藪の中と言わざるを得ないでしょう。

マジックはその後、多くの分派を生んでいく訳です。それは超能力者も入ってますし、占い師なんかも、そうですね。後はエンターテイメントの世界です。

エンターテイメントにおけるマジックとは、歌や踊り、演劇等と対等に肩を並べる物です。アメリカ西海岸におけるエンターテイメントの最高峰、ラスベガスに於いて、マジックショーをホテルのメインショーに据えるホテルは多いのです。ミラージュホテルのシークフリード&ロイや、シーザスパレスのデビットカッパーフィールド、後はランスバートンとかも、そうですね。どちらかというとグレードの高いホテルになればなるほど、ショーとしてマジックを取り扱っていると思います。

他にもレビューショーの中にマジシャンが入っているのもいたって日常的です。

一方手品は、日本における「手妻」が起源とされています。一般的には大道芸の枠と考えて宜しいのでしょうか。これも後に見世物小屋における「蜘蛛女」などの分派を生むのですが・・・手品は常に落語等の寄席における前座芸としての位置づけでしたね。いわば古典芸能くさいです。またエンターテイメント性の低い事が多かったです。無論全員がそうだとは決していいません。

(99/08/03追記)
根を掘り下げていくと、手妻も中世の魔法がルーツであることは、おそらく間違いないでしょう。ここで問題視しているのは、あくまでも日本芸能文化が手品という一つのジャンルを軽視し続けたというのがポイントだと考えています。現在の日本国内のマジック界は、この古典芸能から派生しているグループ・団体と、そうではない人たちとが入り混じっている状態です。
一人一人の手品師・マジシャンを振り分けるような面倒な手間は惜しんだのでこのような表現になっていますが、私自身はプロとしての姿勢などを見ていて尊敬に値する手品師の方々もいらっしゃいます。有名なところではマギー四郎さんなんかが顕著です。彼は手品師としての確立された姿勢、プロ意識など頷く点が多く、非常に感心させられたことがあります。

手先の技術を用いた芸であるという印象を日本人に強く思わせているのは、この手品という言葉と手品師の「種も仕掛けもありません」という常套句、また「俺様にしか出来ないんだよ」といった演技から滲み出る優越感がもたらしたものでしょう。

で、この語源や起源の違いをイコール手品とマジックが違うと言ってる訳でもありません。

実は問題はもっと根深いものがあります。私が言っている手品とは、その姿勢がどうしても許せないものの事を指している場合があります。

例えば、

演技を見せる前に観客が、「どうにかしてタネを見破ってやる」と意気込んでいる場合、あなたはどうしますか?

という設問があったとしましょう。これに対する解答として、とある手品師は本にこんな事を書いていました。

その場合、「タネなんかは、後でいくらでも教えてあげますので、まずは僕の演技を見てください。いいですか」と言ってからショーを始めましょう

…ですって。

観客馬鹿にしすぎ

演技が中途半端であれば、観客はそこで行われているマジックショーではなく、マジックそのものの方法に焦点を合わせたくなります。これは日本人特有の文化ではありますが、一方で演技をする側にも問題を感じるのは否めません。こんな教え方を信じているマジシャンがいるから困っちゃいますよね。

まあ、これに限った事ではないのですが、エンターテイメントとしては、とても考えられない事を平気で世に伝える人できれば、こういう方と同じ枠ではいたくないなぁ、と思う訳です。そのために手品とマジックを区切るというエクスキューズで使ってるのかもしれませんね。

日本人の手品師というのは、非常に偏っていて技術だけが極端に突出していて演技力がまったくなウツケモノというのが、沢山います。一方で、ろくすっぽ練習もしないで技術力が皆無なのを隠してマジックは演出と演技力があれば、見せる内容はどうでもいいんだよ、などという口上を繰り返す馬鹿もいますな。

大事なのはやはり全ての面で最低限の水準を超えた力を持っているべきと私なんかは考えます。

で、

重要なのは、観客に手品だろうがマジックだろうが夢のあるもの素晴らしいショーを提供する事が出来るか、ということです。そういった意味では、私はどちらもマジックにしても手品にしても否定しないのですが、なかなかそーはいかない人もいるようでして、困ったもんです。

ネタを知りたいという観客の欲望も分かります。それでも最後には、そんな欲求も忘れてしまうほどのショーが展開できるかどうか、そこにかかっていますね。

ただ、その点に関しては手品よりも海外のエンターテイナーとして成功しているマジシャンの方が優れているというのは、否めないでしょう。日本国内でそういうショーを構成できる人を探すのはどちらかというと苦労するような気がします。無論、皆無ではない事は知っているのですが…

(99/08/03追記)
エンターテイメント性の低いマジシャンが多く輩出される要因として、私自身は局地的に行われる機密性の高いマジックの大会というのを時折考えます。海外の大会は例外なのですが、国内で行われる大会の中では、観客も演者もすべてマジシャンというモノがあります。このような場所で行われるマジックコンテスト等は、マジックとしての優劣に比重が置かれているのではないのかな、と懸念します。
観客に分からないような技術・仕掛けがモテハヤサレ、それこそ出来レースのようなモノがあるのかもしれません。このような場所で優秀な成績を残しているマジシャンが優れたマジシャンというのであれば、それは「マジシャンの為のマジシャン」でしかないような気がします。
無論、そういう大会で優勝しているマジシャンが優れていないという訳ではありませんが、やはり「楽しませる」という部分が欠落したコンテストではなかろうか、と思ってしまうのは、おそらく私だけではないのでは。

書きおわってみたら、またもや取り留めのない文章になってしまいました。結局何がいいたいのやら、ま、この論議はまだまだ成熟過程ですので、気が向いたらまた書きますわ、それでは。

Next Page »