今回、このエッセイを始めるにあたって、自分が残しておきたい内容のジャンルを5つくらいに絞ろうと考えた。そのときに、比較的早めに確定していたのが「音楽」というジャンルだった。
マジックと音楽は非常に密接な関係にある。実際に音楽を使うのはステージマジックだけだと考える旧態依然の捉え方はいまだにあるものの、その利用方法はクロースアップマジックまで広がってきている。
このMUSICの章では私の考えている音楽とマジックの関連性に関して取り上げていくことになるのだが、これは浅くもあり、深くもある。今回はその入り口となる。音楽の持つ魔性を取り上げておこうとおもう。これは今後の音楽の話における根本の部分である。
音楽は非常に古くからある自己表現の方法である。絵にせよ、写真にせよ、そしてマジックにせよ、それは演技者もしくは筆者、すなわち表現者の意図を含んでいる。
マジックにおける音楽は、マジックの現象を行う上で助けとなる効果音として捉えるケースが多い。少し前の大学サークルの発表会などを見ると、そのステージでかかっている曲はマジックのイメージよりも、むしろ演技者が好きな曲、乗りやすい曲などが多かっただろう。
しかし、音楽は一つの作品であるという点を忘れてはいけない。その曲には、その曲を作った人の意図が存在しているのである。
マジックを行う際の音楽は、実は諸刃の剣であり、場合によっては自分のマジックに含んだ意図や表現を打ち消してしまうケースを持っている。俗に言う「曲に負ける」というものだ。これはこれまでに見てきた多くのマジックにおいて目の当たりにしてきた。
一方で、マジシャンの意図にジャストフィットした音楽の場合、その効果は尋常ならざるものがある。
私たちは自分のマジックで音楽を流す際に、その音楽の持つ力をあなどってはいけないのである。それを見落とすと、自分のマジックを落としてしまう事にもなるし、どんなに良い現象だったとしても、観客に伝わる力が半減する可能性もあるのだ。
音楽の魔性をいかに使いこなすか。これはこの章における大きなテーマである。今後もこの中で様々な視点から取り上げていきたい。
先般、市川コルトンプラザでマジックマスターズオープン2002なるマジックの大会が開かれた。マジックの大会というのは刺激の宝庫であり、これだけでご飯3杯は食べられる。味付けもちょい濃い目で白米にぴったりかも。
そんななので、色々考えることもある。ネタは山のように出てくるし、自分にとっても大事な事を再確認する場として、マジックの大会、またそれに付随する他の人との交流は新しい考えや自分の考えが整理されていく。
まずはマジックの原論に、自分の再確認も含めて触れていきたいと思う。
マジックを始めるきっかけというのは様々である。マジックを覚えたいという点では共通するのだが、その指向は内向性と外向性にわかれている。つまり、自分が覚えることで満足するのか、人に見せることによって満足するのか、という点である。
初動において、この方向性は2極分化する傾向が強い。そして、マジックの覚えた量、始めてからの期間に応じて、この方向性は外向性側に大きく傾いていく。つまりマジックは自己満足の道具ではなく、人に見せることでその効果を発揮するという点にたどりつくのである。
しかし、この人に見せるという行為は実は二面性を秘めていたりする。それは見せることによって自分が楽しい場合と、マジックを見て喜ぶ相手を見て楽しい場合だ。前者には失礼な言い方だがマニアが多い。後者はプロマジシャンに多く見られる。これは絶対論ではなく、比較論での話。マニアと呼ばれる人の中にも、マジックを見て楽しんでくれるという事が嬉しい人もいるし、プロマジシャンにも自分が行う凄い事を「どうだ、俺様は凄いだろ」と見せる人だっている。
さて、マジックは一体誰のもので、何が目的なのだろう。
私自身におけるマジックは、自分を格好良く見せるための一つのソースにすぎない。極端な言い方をすれば、歌が上手ければ歌でもいいし、踊れるならダンスでもいい。しかし、現在の自分において最も自分を格好良く見せられるのはマジックだと考えるし、今後もその点に関しては変化はないものと思われる。
またマジックには夢と幻想がある。観客はデックの中にいれたカードが指を鳴らすと一番上にあがってくる、という現象だけを見るのではなく、それを演じているマジシャンの姿も含めて見ているのである。だからこそ、マジックはマジシャンのものかもしれないが、その目的は観客を楽しませるものなのではなかろうか。
私は自分が格好良く見せるためのソースという表現をしたが、自分が格好良くなるためには観客が見て楽しい、もしくは驚くことのできるマジックが成立している必要がある。自分が好きだから、自分が格好良くなるから、という理由だけで演じるマジックを選んだとしても、それは独り善がりの自己満足で観客がついてこなければ、なんの意味もなさない。
マジックショーは観客のためにあるものである。何をもってマジックショーとするのかは千差万別やもしれぬが、私は自分がカードを持って、それを見る観客がいれば、それはすべてショーであると考える。だからこそ、マジックは見せるものであるという認識を地の部分にきっちりと埋め込んでおかなければならないだろう。
「自分がしたい」事がそのまま「観客の見たい」事であれば、これは幸運な事だ。無論、観客が何を望んでいるかがわかればこれにこしたことはない。なので、ここで悩んでもあまり意味はない。しかし、「自分がしたい」事が「観客が見れる」ものかどうかは、多くの努力を必要とする。
今後もTHEORYの章ではこの話が出てくると思われる。大会における演技で例えれば、声の大きさ、台詞のカツゼツ・・・観客が自分の言いたいことを聞き取れているのか、また理解してもらえているのか。カードの取り扱い方、アピールの仕方・・・自分の見せたい現象は本当に観客が見えているのか、また印象に残っているのだろうか。
これを一言で片付けるとするならば「プロ意識」と括れてしまうが、そんな野暮なことはしない。
しかし、観客の立場にたったときに、自分が他のマジシャンに対して不満に思うことがもしあれば、それはあなたのマジックに対して、観客が同じ事を感じているかもしれない。という事は一度さらってみると、演技に磨きがかかるのではなかろうか。
マジックをするということは、かならず観客がいることで成立する。だからこそマジシャンは観客を意識することが重要なのである。練習の段階から一人で練習していても観客を意識した動きをすることはマジシャンとしてのレベル向上に大きな助力となる。という点を理解することが大事なのだ。
また、自分のマジックを自分が観客として見た時に、何があったら見やすいかだけではなく、どうなったら面白いか、と考えることができれば、それは観客のためのマジック。すなわち多くの喜びを提供できるマジックに変化させるチャンスにもなる。
私自身は、Psykaの「したい」マジックを考えるのではなく、私が「見たい」Psykaのマジックを考えるようにしている。これは似ているが大きく異なるもので、これが私のショーのクオリティの一端を担っている、と考えている。
さて、この「したい・みたい」論は様々な派生をすることになる。今後もこの章では色々な角度から突き詰めていきたいと思う。
Psyka.netの中に新たに設けられた、この「narrow-minded thought」に関して、まずは私自身がこれをどのような意図で設けたのかを説明する必要はないかと、まずは文章を書くという作業におけるリハビリのつもりで書いてみることにする。
このコーナーの趣旨は以前書いていた「Outside of “King’s road”」に近い。いわば、Psykaのマジックに関するエッセイという事になるだろう。
私自身はマジック業界とは僅かながら距離をおいた関係を現段階で保持している。無論、接していないわけではないが、マジック漬けではない。しかし、マジックを始めてから12年にわたる経験において、色々な理論を学んできている。
これに加え、私が幸運であったのは社会人としての経験や、テレビ番組を制作する経験など様々なカテゴリーでの経験を同時に持つことができたことであろう。これらは、別々に捉えてしまえば、個々の経験にしかならないが、互いに重なる部分があることに気が付いてしまえば、経験は倍にも3倍にも膨れていく。
もう一点は、意外と(もしくはお約束のように)私はこだわりが多い。これらはただ無意識のうちに行っていることもあれば、意図してるものもあり、さらに、わたしはこれらを文章に表現できる能力をわずかながら持っているだろう。
さらにいうならば、私はこういうものを書くのが好きだ(笑)また、書くことで自分自身に再認識する部分もあるだろうし、かけている部分を誰かに指摘される事だってできる。聞かぬは一生の恥、されど書けば一瞬で解決・・・やもしれぬ
もっというならば、このような考え方は居酒屋で説教まじりにいうのは、誰でもできるのだが、これを文章にしておおっぴらにするのは、なかなか出来ない。それはある一定のリスクを背負うからだ。しかし私はそのリスクを背負うことができるだろう。なぜなら、これは自分自身の確固たる考え方で成り立っており。また過ちを改善する気もあるからだ。無論、考えを曲げるつもりはないので、戦うときは戦うのだろう。
さて。
ここで描かれる様々な理論・思想・意見は「Psyka」というマジシャンの考え方である。私は生粋のウイザードイン育ちではあるが、その考え方はウイザードインと合致しているとは思わないし、ここを読まれる奇特な読者もそう思わないほうがよい。私は柳田昌宏にはなれないし、小林恵子でもない。彼らの代弁者にはなれるわけもないのだから、語られるのはあくまでも私の私見に過ぎない。
しかし、それが時にはウイザードインで示されているものと同じであることは、おそらく多分に含まれるに違いない。それでも100%にはならない、どこかで亜種であることを読者は十二分に知っていてほしい。それは、現在の私がウイザードインの純粋培養ではないからだ。
しかし、ここでこれから書かれていく事の中には、もしかしたら、自分のマジックに役に立ってしまうやもしれぬ情報があったり、なかったり。それは読者が判断して欲しい。また、そんな事になれば私も書いたかいがある。。。。まあ、正しくない部分で影響されたとしても責任は一切終えないのだがな。
以上、書き始める前の言い訳終了。自分の考えを残す倉庫として、ここに私の理論を「あきることなく」残せることを祈りつつ、筆をとろう。