11月 2002


022「マジックの不思議さの不思議」によせられた掲示板の書き込みは興味深いものである。

マジック経験者が一般人の視点を失わないことは可能か、
失わないためにはどのようなことに気を付ければ良いか、
などを掘り下げてもらえるとうれしいかと存じます。

前章の焦点の一つは、まちがいなくこの話である。マジック経験者が一般人の視点を失わないことは可能か、というものである。

まず、私の考え方から述べるとするならば、この質問に関して言えば、答えは「NO」である。すなわち、マジック経験者は一般人の視点をもつことはできないというものだ。これはより詳しく書かなければ誤解されそうだが、概ね、間違っていない。問題の本質自体が「NO」でもあるのだが、これは後半で触れよう。

マジックの本質、すなわち、やり方や技術、しかけなどを知るという事は、側面から見れば、マジックを知るという事になるが、マジック全体から見れば、マジックを全て知っているという事にはならない。

私が述べる一般人の視点をもてない、という言い方は、それぞれのマジックに対するかかわり方、棺おけにどの位、足をつっこんでいるかによって、異なってくると言えるだろう。

たとえば、テンヨー社のダイナミックコインだけ買ったことがある人がいても、この人が一般的な視点ではないかというと、そうでもない。彼にとって、マジックの本質はダイナミックコインだけなのだから、その他のマジックにおいて、彼は一般人と同じ状況下にある。

ここで語るマジック経験者というのは、匙加減が微妙だ。ある程度のマジックを経験し、自分でも演技をする。特にカードマジックやコインマジックの経験者、ステージマジックなども含まれるかもしれない。手品コーナーでテンヨーのダイナミックコイン等に代表されるアイテムを購入している人は意外と含まれないケースがある。

このような人と実際にマジックを演じて、その内容に関してディスカッションをしていると、意外な共通甲にあたる。それは、マジシャンでなければ気にしない部分を気にして、マジシャンだから気にしない部分を気にしないという点だ。

具体的な例はケースバイケースなので、挙げづらいのだが、私なりの例を挙げてみよう。

例えば、テーブルにおいた、2枚のジョーカーの間に観客のカードがはさまれる事によってカード当てをする、というサンドウィッチトリックのようなものがあったとする。このマジックを語る際に、彼らは2枚のカードに観客のカードをはさまなければならない、そのムーブに関しての不自然さは細かく議論するが、テーブルに置いてある2枚のジャックをデックの上に1度載せて「あらため」をするという動作が不自然であるという議論はしない。

マジックはいくつかの技術において「必要悪」が存在している。4枚のジャックを改める際に、デックの上で行ったり、たった4枚のカードなのに広げず、1枚ずつカウントしてあらためるなど、これらはマジックにおいてだけ存在する「必要悪」といえる。

私は、これらの動作を否定しているわけではない。しかし、これらが動作において不自然な可能性を秘めている事に目を背けてはいけない、という事だ。

マジックを知るということは、このような点からしても、大きな意味で「一般者の視点」とは異なるといえるだろう。

私の挙げる「一般者の視点」とは、このように動作上不自然に思うかどうか、というポイントではないのだが、多くのマジシャンは「一般の人はそこでそういう風に動くとおかしいと感じる」という話をする。しかし、これらの大半は「そんな事を一般の人は気にしていない」というのも事実だ。

無論、全てではない。大半である。

では本来の「一般者の視点」とは何かといえば、これは大きな幻想である。というのが私の持論だ。

例えば料理を例にしてみる。どんなに優れた調理技術を知っている料理人だって、人が作った料理を食べたときに、「おいしい」と思い、感動する事がある。調理方法などを考えたり、素材のウンチクを語ることもあるかもしれないが、「おいしい」というのは、調理知識の有る無しに関わらず、共通言語であり、全ての人が持って然るべき感覚である。

マジックも同じだ。どんなに優れた技術や仕掛けを知っているマジシャンだって、他のマジシャンが見せた演技に「面白い」「不思議だ」と思い、感動する事がある。

つまり、マジックを知っている人も、知らない人も、マジックを楽しむ感性は共通なのである。知識を有している分、その楽しみ方が違う場合があったとしても、良い物を良いと感じるのは人によって変わるものではない。

すなわり、「一般者の視点」という表現は幻想の産物である。という事だ。料理人が料理できない人を指して「一般者」とは言わないように、マジシャンもマジックが出来ない人を総称して「一般の人」というのは、あまり意味を成さないのでは、と私は考えている。

つまり、最初にあった質問

マジック経験者が一般人の視点を失わないことは可能か、

に関して言えば、

マジック経験者がマジック未経験者と同じ視点を持つことは難しい。
しかし、
マジックの経験の有無に関わらず、マジックを楽しむ視点に違いはない。

という答えになる。

しかし、マジック経験者は自分の意識でこの視点を歪めているケースが多い。
それは、先ほどの技術における「必要悪」の認知や、「一般の視点」という考え方など、
様々である。

今回は「一般者の視点」の幻想を提唱してみた。
次回のTHEORYの章では、「素人」という言葉の核心に触れてみよう。

年末に向けてマジックの営業がだんだんと増えてきている今日この頃。まあ、あまり受けていないのでキツいという事ではない。それだけで飯を食う人達に比べると大分ましか。

マジックのやり方を人と話していたり、実際に見せた場合。一般的な観客とマジック経験者もしくはマジシャンなどによって、マジックが面白いかどうかの物差しは微妙に異なるようだ。別に変わった話ではないのだが。

この業界にいる人は、原則的にマジシャンである。マジックを演じる経験を持っていたり、マジックをしょっちゅう見ていたり。彼らとマジックの話をしたときに、たまに「?」と思うことがある。彼らのほめるマジシャンは「マジシャンが見て」凄いマジシャンのケースが多いからだ。

概ね、マジシャンが見て凄いマジシャンは、一般の観客が見ても凄いマジシャンであると思われるのだが、時にはそうでもない人も多々いる。凄い技術をどんなにこなせるとしても、マジシャンとして営業できないなんていうマジシャン。一人や二人は覚えがあるだろうかと思う。

逆に、観客に物凄い人気のあるマジシャンが、マジック業界では評価が低いケースもある。これはその彼が行う現象が比較的本やビデオに載っている有名なルーティンばかりで、目新しさがない場合だ。

どっちのマジシャンが優れているのか?というのは非常に難しいテーマだ。私の結論は「稼げる奴のほうがスゲエ」なのだが。

これを細分化すると、マジックも同じ話ができる。すなわち、

・マジシャンが見て凄いと思うマジック
・一般の観客が見て凄いと思えるマジック
・どっちが見ても凄いと思うマジック

である。

この業界で生きていく場合、果たしてどのマジックが多いのが良いのだろうか、無論、どっちが見ても凄いマジックにこしたことはないのだが、そうもいかないのが世の常である。

マジックの現象のもつ不思議さは受け取る側の能力によって左右されるものであるという事を言いたいのだ。

よくマジックの専門書を読んでいると「シンプルだが思った以上の効果が生まれる」という表記を目にする。実際、見ると大したことないマジックが観客には受けるというケースだ。

マジックは長い経験をもち知識を増やしていくと、この観客から見て不思議なマジックを選び出すという能力が徐々に衰退していくと私は思っている。いわばマニア化することにより、観客の目線でモノを見れなくなる、というものだ。

私が数多くのマジック愛好家と話しているときに思うのは、この能力欠如を起こしている場合と、一般の視線を意識しすぎたがために、穿ったモノの見方になってしまっている場合があるということだ。「一般人にはこうした方がうける」的な言い方で、やりかたを自分なりにアレンジしている大半のマジシャンは、この一般感覚過剰症候群といえるだろう。ポイントは一般人という物言いだ。

マジックの不思議は突き詰めれば万人に不思議であるはずなのだが、知識や経験はそれをボカしてしまう。あるものをあるがままに受け入れたときに、不思議さに差分が発生するというのも、私からしてみると不思議なことではあるのだが。

うむ、文章がまとまらないのは結局何が言いたいかが定まっていないから。私自身はマジックを考えていたり、自分のレパートリーを増やすときに、ここ数年、マジシャンに見せるマジックがどんどん減っている。おそらく見たマジシャンは「Psykaって大した事ないなあ」と思われそうだが、その大した事ないマジックの数々の精度を高めるというのも、大事ではなかろうか、などと。

ああ、やっぱまとまってない。再考しよう←じゃあアップするなよ。

目は口ほどにモノを言う。ということわざがあるが、マジックにおいては、「手は口ほどにモノを言う」となる。マジックにおける動きのいくつかは、実際には口で言えば済んでしまうことが多くあり、マジックをしない人から見ると、なぜそんな事をするのだろう。という気持ちになる事がある。

例えば、エルムズレイカウントなどで4枚のパケットを確認したり、ビドルグリップにもった表向きのジャックを1枚ずつ確認したり。これらはすべて、口で言えば2秒もかからず説明できてしまう。パケットを広げて「ここに1,2,3,4枚のカードがあります」で事が足りてしまうわけだ。

マジシャンの技術のいくつかは、この宿命を背負っている。ここをいかに解決するかがマジシャン個々の技量ではないかと考えている。技術そのものに問題があるものも中にはあるかもしれないが、大半は使用者の技量を問うものだと考えている。

さて、そんな技術だが、私が演技の際に特に気をつけているのが、現象と台詞のズレである。

通常、実際に行っている現象をそのまま台詞にしてしまうものを「ラジオマジック」と呼んでいる。つまり、目をつぶっていても、そのマジシャンが何をしているのかが分かる演技というものだ。

実際に典型的なラジオマジックの演技における台詞を抜粋してみよう。

ここに2枚のジャックがあります。それでは、こちらの残りのカードから1枚好きなカードを取って、見て覚えてください。覚えましたか、それではこちらに戻してください。
今から、この2枚のジャックがこのデックの中からあなたのカードを探してきたら不思議ではありませんか?それでは早速やってみましょう。1,2,3!
ご覧下さい、2枚のジャックが1枚のカードをはさんでいます。あなたの選んだカードはなんですか?ハートの9ですね。こちらがそのカードであることをご確認ください。ありがとうございました。

これは、某氏の演技をそのまま台詞だけ抜粋させていただいた。台詞の間などがあるものの、おおむね間違っていない。これを読んでいただくと、このマジシャンが何をしているのか、下手をするとどんな動きをしているのかまで想像がついてしまう。これがラジオマジックである。

この台詞には、わざわざ口で言わなくても観客がマジシャンとカードを見ているだけで分かることが多分に含まれている。こんどは同じ台詞の余計な部分を斜体で見せてみる。

ここに2枚のジャックがあります。それでは、こちらの残りのカードから1枚好きなカードを取って、見て覚えてください。覚えましたか、それではこちらに戻してください。
今から、この2枚のジャックがこのデックの中からあなたのカードを探してきたら不思議ではありませんか?それでは早速やってみましょう。1,2,3!
ご覧下さい、2枚のジャックが1枚のカードをはさんでいます。あなたの選んだカードはなんですか?ハートの9ですね。こちらがそのカードであることをご確認ください。ありがとうございました。

赤ペン先生みたいだ。文章を増やさないように添削したので多少無理があるが、ようは状況表現が非常に多いのである。ジャックが2枚なのは見ればわかるし、カードを探すのはジャックを出している以上はそれを使うのもわかる。2枚のジャックに1枚のカードが挟まっているのも、目が見えない以外はおそらく理解できるはずだ。極端な話でいうと、ジャックであると言わなくてもいいくらいである。

マジシャンが言葉で必要以上の情報を観客に与えることは、時にマジックの現象自体の希薄化を促す事がある。現象の希薄化というのは、言葉による情報の入手により発生する現象のもつインパクトや不思議さを打ち消してしまうということである。

マジックにおける言葉での情報伝達は非常に難しい。何も伝えなければ良いのかというと、必ずしもそういう訳ではない。現象のインパクトを増幅させるために、台詞を利用するケースだってある。

例えば、非常に不可能と思われる状況下でカードを当てるマジックがあったとする。この際に、何もいわずにカードを当てるよりも、そこに至るまでのシチュエーションを反芻し、以下にこのカードを当てることが難しいかを説明するほうが、観客にそのカード当てじたいの難易度が理解しやすく、不思議さが増す場合もある。

マジックにおける台詞。特に動作・現象に直結する台詞には限度と頻度のバランスが存在している。まったく現象に触れずに台詞を構築させる手法も一時期多かったが、結果として演技と台詞がまったくかみ合わず、観客に「?」を与えるだけという酷いものが後期出現した。

とはいえ、前出のラジオマジックのように目をつぶっても何をしているのかが分かってしまってはちょっとどうかと思う。私はリスペクトするクロースアップマジシャンは多いのだが、これまでに見てきたなかの若干のプロマジシャンは、このラジオマジックであった。私は彼らをリスペクトすることはできない。もしかしたら、世界初のラジオでマジックができるマジシャンになるかもしれないが。

NHKのかなり昔の世界のマジックショーで、誰の演技かは忘れたが、ステージマジシャンの演技でナレーションの人が演技の最中に「さあ、これからハトが出ますよ」という、するとハトがでる。こんなん見てて楽しいのか?と我が目を疑ってしまう。もしホラー映画で「ジェイソンが出るまで○秒前」とか左下にテロップ入ったら怖くないのと一緒である。

生の演技もこれらと同じである。マジックの起こす現象は神聖なもので、期待されているものである。マジシャンは観客のために、この期待感をそぐような行為はするべきではないのである。

またマジシャンはマジックという現象を起こす事を生業にするのである。だからこそ、台詞は最新の注意を払い、マジックに集中しやすい環境を作り出す道具であると認識すべきだ。

ショーやプライベートでマジシャンではない観客にマジックを見せていると、意外と多いのが「マジックの現象って目の錯覚なんでしょ?」というご意見だ。昔は「タネ(もしくは仕掛け)があるんでしょ」の方が多かった気がするのだが、ここのところ、前者をよく耳にする。

辞典を出すのが面倒なので、goo【国語辞典】を引用すると

さっかく さく― 【錯覚】
 (名)スル
 (1)事実とは異なるが、そうであるかのように思うこと。思い違い。勘違い。
   「まるで外国へ行ったような―を起こす」
 (2)〔心〕 あるものについての知覚が客観的事実と著しく食い違うこと。→幻覚

とある。つまり、目の錯覚というのは、目が事実とは異なるものをそうであると思い込んでいる。という意味合いになる。おそらく観客の言う錯覚はこれを指しているのだろう。

私はこれを非常に興味深く思った。果たしてマジックは目の錯覚なのだろうか?という事である。

私にとっての答えは「NO」である。おそらく皆さんにもそれぞれの答えがあるに違いない。私のマジックにおける錯覚の答えは以下のとおりである。

観客が見ているマジックの現象は、その瞬間、そこで起きている間違いなく現実のものである。つまり、錯覚ではないということだ。しかし、同じ時に、同じ物を見ているマジシャン側の現実とはイコールではない場合がある。つまり、マジシャンと観客では見ている現実が異なるのだ。

その差はマジックによって様々な要因がある。技術、ネタ、仕掛け、角度・・・言い方は色々あるだろう。このマジシャンと観客それぞれの現実の誤差。これが「マジック」であり、観客における「錯覚」となる。

なので、観客の思い違いでもないし、勘違いでもない。観客が見ているものは紛れも無い事実である。という事で、私はそれを錯覚と呼ぶのは難しいのではないかと考えている。

この話は、マジシャンや小難しい話が好きな人には非常に受けるのだが、ここを読まれている読者はどうだろうか。

若干、MOVEの章に入るべき内容だが、私の中では理論立てがかなり終わっているので、ここで取り上げさせてもらおう。

私の個人的な感覚だが、マジックにおける技術は文章で伝えきるのは難しいと思っている。どんなに名文であろうと、すぐれた解説者であろうと、元の技術が100とするとその意図は85しか伝わらないと考えている。残りの15はその文章を読んだ読者の想像力に頼る部分がある。

同じように、ビデオレクチャーにおける技術の伝達も、85とは言わないものの、95までしか伝わらないと考えている。それはビデオは一方通行のレクチャーで、本人の意図を100%伝えきるビデオは無いと考えているからだ。正確に言えば、伝える側は100を表現していても、聞く側の理解力に影響される。より100に近づけるためには、どこかに対話の場が必要である。という考えだ。

対面の技術伝承は、限りなく100に近いかもしれない。しかし、Aさんが考えた技法をBさんに伝えた段階で、そこにはBさんの思想なり考え方が多少なりとも入る以上、100の伝承は限りなく100に近いが100には成りえない。と考えている。

私は数年前、3,4年に渡ってマジックアイテムの解説書を書いていた経験をもっているのだが、その頃から、この課題を持ちつづけている。手順を伝えるのは比較的簡単だ。それは設計図であり、動きの順序を説明することに終始することで解消される。しかし技術はそう簡単にはいかないと思っていた。

技術には手順以上に、開発者の思想が含まれている。なぜそうするのか、似ていてもそれとは違う理由、考え方など言葉にすべて起こすことは、私は難しいと考えている。ケースバイケースのものもあり、その全てのケースを起こしきることは無理だろう。だから技術伝承は大きく括り「理論・概念」として伝承していく。

つまり、多少の差はあるが、技術は伝承することに本来の意味を失っていくものである、というのが私の考え方だ。つまり、100で始まったものは90になり、その90の90%になり、それの85%・・・という風に目減りしていく。

しかし、これは技術が消えていくという意味ではない。そこに新たな要素が加わる。それは伝承された人間の「理論・概念」という新しいエッセンスだ。

100から95になった技術に聞いた人間の5の考え方が加えられ、技術は再び100になる。ということである。なので、伝承を続けていっても、技術は常に100の形を保ち続けるわけである。

技術の進化はここがベースになっている。退化もまた同じである。聞いた人間がどれだけ汲み取り、そこに何を加えるか。マジックにおける技術はそれによる衰退と進化を繰り返しているような気がする。

私がレクチャーノートを書いていたときに、地方で購入された方が上京する機会があった。その際に、私は自分のレクチャーノートの中の演技を見せた事があったのだが、彼はそのマジックはノートに乗っているものと違う。と私に言った。
そんなはずは無いのだが、彼に演技を見せてもらうと、理由がわかった。それはそこに出てくる技術が同じ名前の技術なのに細部に異なるもので、結果として見栄えや動きにいくつかの違いが出たのであった。

これは技術自体の伝承の違いだ。その彼は地方で本だけで独学で覚えてきたため、過去に呼んできた本で理解した内容が自分にとっての技術の全てであった。そのため、本に書かれた意図を取りきれなかったようだ。なので個々の技術を見たときに、不自然なもの不具合の起きるものがあった。

私は、マジックにおける技術の伝承はマジック自体が抱えている大きな課題と思っている。その変化は物凄い小さいものだが、少なくとも100年前の技術と今の技術を比べると、進化・退化は別にして変化しているのは事実である。同じ技術は様々なマジシャンを通じて、理論や考え方が加えられ今に至っているのだ。

つまり伝承される側の質が仮に低下すれば、技術は衰退していく可能性を持っている。逆もまたシンなりだ。

このマジックにおける技術というのは、老舗飲食店における「秘伝のタレ」に似ている。代々引き継がれてきたタレを守る二代目、三代目というやつだ。製法を受け継がれていっても、そこにはタレのもつ歴史が必要。しかし、二代目が手を抜いたりすればパーになる。さらなる進化をさせるために、新しい事を加えれば、大成功することもあるし、やっぱりすべてパーになることもある。

重要なのは先人達の知恵が尊い物であることを理解すること。そして、それを時代に受け継げる事ができるか、という事だ。私は今を生きるマジシャン全員にその義務があるのでは、と考えている。

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