12月 2002


9月から書き始めて30本目。2002年中にここまで書けたのは、私としては目標を大幅にクリアしたといえるだろう。実際には10本くらいしか書かないかな、と自分でも考えていたからだ。

メールや掲示板での反応は想像以上に少ない。まあ、しょっせん無名の一マジシャンの戯言と言う点ではイチイチ反応してられないという話もなくはないが、文句を言わないとドンドン書き続けるだろう。賛同や感想などあると、、、、やっぱドンドン書き続けるだろう。ようは書き続けるわけだ。

本来であれば、反対意見がもっと噴出しないかな、と考えていたのだが思った以上に意気地なしが多いのか、それとも概ね同意見なのか。やっぱり見られていないというのが落ちな気もするのだが、この辺は来年あたりから問い詰めていきたい。私は業界の重鎮の皆々様がもっとこういう事を言葉にし、ネットに考え方やベースになっている理論を書き記すことで、それぞれのオエライさんの魅力などが世に出るのではないかな、と考えている。それぞれのトップクラスのマジシャンはそれぞれに美学やこだわりがあり、それらに人は惹かれているはずなのだ。だからこそ、それを曝け出すことは、返せば魅力を知ってもらう手法の一つではないか、と考えているのだが、暴力的な考え方なのだろうか。

マジック業界は毎度おもうのだが閉鎖的な村社会だと思う。隣の村が仲良くなければ徹底的にこきおろす。しかし、村同士はお互い同じ土地にあるわけだから、意外と村長同士は認めるところは認めたうえで、否定するところは否定する。リスペクトの精神はどこかに必ずあると思う。もっともうるさいのは中堅支持層の意見で、これは東西ドイツ統一の際の反対運動などと見え方はまったく一緒だ。

これは2ちゃんねるなどに言われる「渋谷系」だけを指しているわけではない。規模の大小、団体間や個人間などの遺恨など、挙げればキリがないというのが現状ではないだろうか。まあ、ウイザードインや柳田氏、緒川氏の名前を聞いただけで毛嫌いする人が多いのは、この業界においてはありがちな話である。

一方で渋谷系とか何処何処系とかを気にせずボーダレスな関係を意識的に展開する人たちもここ数年で増えてきているのも事実である。大きな声では言えないが小さな声ならなんとか、というレベルでも、団体間、個人間でのコミュニケーションが少しずつ進んでいくのは、この業界においては明るい材料ではないかと思う。

私自信は、マジック界は半永久的に統一したりすることはないと考えている。よくマジック業界は戦国時代的な発想をするパターンがあるが、私的にはマジック界はプロレスの世界に非常に似ている。力道山の日本プロレスからはじまり、アントニオ猪木の新日本、ジャイアント馬場の全日本、国際プロレスという複数団体時代を経て、さまざまな異端児を創出し、乱立する多団体時代へと進んでいく。これらは離合集散を繰り返しつつも、なお多団体を形成し続けている。決してすべてが一つにまとまることは、日本においてはないだろう。(アメリカはもう少しでなりかけたが、統一までには至っていない)

プロレス界も多くの遺恨や因縁を持ちつづけていた、しかし時代が進み、多団体による業界の沈静化などによって、求められるべく、各団体間での対抗戦や交流などが盛んになってきた。永遠に実現しないと思われていた夢の対戦がファンに提供されているという点でも業界活性への道程を進んでいるのである。マジック界も今後はそうなっていくと思う。世代交代はもうすぐである。

私自身は来年以降も同じように考えを連ねるのに注力するのだが、まだまだイベントやショーを見に行ったり、マジシャンとの交流が人に自慢出来るほど多くない。なので多方面へのアプローチも考えている。どっちにせよ業界内で食べていくつもりがないので、自分の思うがままに活動するのも面白そうだ。会いたい人がいたら誰か呼んでください。遠くないかぎり、時間のかぎり、何処にでも馳せ参じます。ていうかそういう情報ください。

ウイザードインの”ウ”の字を聞いただけで横向く人以外でしたら。

って、そんな人は見ていない。

さらに引き続き、タネ明かしに関して

私はパフォーマーとしてのマジック商売にあまり興味がない。まあ期待されるものに応えるだけの器量は持ち合わせているので、要請があれば受ける程度である。それでも、そこら辺のには負けないだけの仕事はこなしているとは思うが。

一方で、パフォーマー以外のマジックビジネスも考えられるのでは、と思う。それは私の永年の目標であり、まあ期限のないものである。まだ市場的に安定していないので投資しないだけ、とも言えるだろう。

マジックをビジネスとして考える一起業家として、昨今のテレビ番組におけるタネ明かし番組は、非常に好意的に捉えることができる。メディアがネタに枯渇する昨今の番組の中でマジックがどんな形であれ、一般の目に触れる機会が増えることは非常に有難い。

ぶっちゃけた話をするのであれば、理想はマジックの演技だけの番組なのだと思うのだが、それがなかなか存在し得ないのは、マジシャンはタレントではないから、に他ならない。

私はブラウン管の中において魅力あるキャラクターであるというのは、タレントの一つの才能であると考える。ダウンタウンやとんねるずが漫才やコントをしなくても、ゴールデンタイムに番組を持ち、長い間、その場所に居続ける事ができるのは、彼らがテレビというメディアにおいて輝くことのできる才能を持ち合わせているからだ。

テレビで活躍するマジシャンの多くは、マジックをとってしまうと非常に貧相に見える。誰かがいじってもあまり面白くないし、ピンでしゃべらしてもパッとしない。タレントとしての魅力は他の芸能人と比べても明らかに見劣りしてしまう。

ここ数年において、マジックをしなくてもタレントとしていじられて面白いと思えるのは、古くは「とんねるずの生ダラ」に出ていた無敵王氏、最近ではマギー審司氏あたりは、まったくもってマジックをしていなくても、他のタレントによるいじりで絵になるかな、とか。

マリックさんなどは、マジックしないとけっこうタダの人っぽくなる。この辺を鑑みるとマジシャンというジャンルはあくまでもマジシャンであって芸能人じゃないんだな、という事をしることになったりしているのだが。(無論、マリックさんは比較的タレントとしての知恵を身につけているとは思うが)

マジックだけの番組を成立させるためには、どうしてもタレントとしての素養を持ったマジシャンの登場が望ましいのでは?というのが私の現在の結論。現実的にはマジシャンだけじゃ持たないので、syべれたり絵になるタレントをかぶせようとするわけだ、テレビ局側の論理は明確。マジックファンとしてはウザいだけなのでイランのだが、そうもいかないとも思う。●●●●とかがもし、タレントなしでマジック番組やったら、視聴率は2%くらいだろうしなあ、ゴールデンで。

タネ明かしが今後も安定的なコンテンツになるとは考えにくいが、マジックがテレビで安定したコンテンツになるんであれば、一般への認知も多少なりとも上がっていくかな?とそうすれば、マジックを趣味とした人だけを対象としたビジネスじゃなく、違う方向のビジネスももっと広がってくるかなと考える。

で、あれば、今のタネアカシはマジックを商売にしようと考えるのであれば、その良し悪しは知ったこっちゃなく大歓迎という事になる。

しかし、タネアカシはマジックの面白い部分というよりは恥部晒しであって、けっして面白い演出ではないと思うから、方向性が変わってくれればいいなあ、とテレビ局には切に願いたいのだが、それをテレビ局が認識するには優れた演技者、タレント性を持ったマジシャンが必要なんだとも思う。

テレビ局としても苦肉の策なんじゃないか?

先月のことだが某民法キー局のプロデューサーさんと食事していたときにそんな話をしていたのだが、テレビ局的にはマジックの番組を作る意思がないわけではないらしい、がレギュラーをまかせるようなマジシャンがいないというのが辛いらしい。MC用意してマジシャンのマジックを見せるだけでは、視聴率も厳しい。やはり、マジシャンに華が欲しいというのが正直なところだ。

特番なども作る意思はどうやらあるようで、あとはどんな題材を考えるか。ここに関してはテレビ局側にマジックのノウハウがないので、魅力的なコンテンツを提案してくれる人なり団体なり会社なりがあるかどうか次第というのが現状という私の認識も概ね間違っていないとの事。。

作家が考える企画はどうしてもバラエティ色が強く、マジックを純粋にマジックとして取り上げるだけの知識がないから、またマジックを卑下している傾向があるから、ロクな企画がないらしい、なるほど、そりゃそうだろうなあ。

今後もテレビ局側はマジックをコンテンツの一つとして捉えていく方向はある事は間違いない。あとはそこにどれだけ魅力的な提案を寄せられるか。マジック界側に優秀なプレゼンターが求められている。

話が大きくそれているが、今後、起業家として考えるならばマジックはより多くの人に接してもらったほうが市場が拡大するので、テレビに露出されるのは、いかなる方法でも肯定的である。私が示している起業は、決してマジック愛好家をターゲットとしたものではない。

しかし、テレビに出ているマジシャンが魅力的でなければ、テレビでの露出はマジック自体を非常に低俗なものに落とし込む可能性を持っている。

そういった意味で、私は半肯定的という言えるだろう。無理クリまとめた感が強いが、そんなことはない、たぶん。

前回に引き続き、タネ明かしに関して

実は私のこの全3回で語られる内容には一貫して一本の柱となる原則がある。結果的にこの原則を手を変え品を変え説明しているだけだったりするので、一回ですんでしまう話かもしれない。

また、この現時点での結論は最終結論でないことも明確にしておきたい。これはこれから先しばらくは監視し、研究しなければならない課題である。また結論が大幅に変わることも考えられる。

さて、前回のマジシャンに続き、今回はマジックファンとしての考え方を。

結論から言うと、マジックの一ファンとしては、テレビにおけるタネ明かし番組は「NO」である。理由は非常に明確で、「つまらない」からだ。

現在のマジックのタネ明かし番組に共通して感じるのは、見せてはいけないモノを晒させる事によって視聴者側の優越感を煽る手法だ。「知られちゃいけない事を晒してやがるぜこのバカは」的な番組の構成は見ていて反吐がでる。

一方、「こんな凄い事がこんな簡単にできるんですよ」的な教えますよマジックという感じのものは、これまたツマラナイ。テレビを通じて万人が知っているマジックを一体誰がやるというのだ。まあ、そんなに言うほど、タネアカシ番組は視聴率がよくない。ここのところ乱立傾向が進んでいるせいか、その新鮮さは薄れてしまっている。

テレビ的には裏見せますは番組のキャッチ−も分かりやすいのだが、それが視聴者が本当に望んでいるかといえば、あまり望んでいない気がする。かくいう私も、タネあかし番組よりも「ごまっとう特集」のほうが興味がある。いや、藤本美貴しばりでもいい。そうじゃねえって。

しょせんタネアカシ番組は一発屋であると考えられる。最初は新鮮さがあっても、それを続けていればやがて飽きられるのだ。実際に視聴者は飽きているのではなかろうか。番組においてマジシャンは概ね悪役であり、「タネを見破ってやりましょう、コンチクショウ」的な司会やナレーションが入るのは見ていてあまり気持ちよくない。

一方でこういう番組が先行する背景にはテレビに耐えられるマジシャンが少ないからではないかとも考えられる。

テレビに耐えられるマジシャンというのは、マジックの技術だけでなく、芸能人としての魅力や強さが必要だ。初代引田天功氏やミスターマリック氏などはマジシャンとしての技術だけでなく芸能人として通用するカリズムを備えていたからこそ、継続して番組として成立したのだろう。トランプマン氏も近い意味で同列と思われる。

昨今のタネアカシ系にマリック氏やトランプマン氏が登場しているのは本人の考えがあるのだろうから否定はしない。私はあまり見たくないので見ないだけである。

テレビで見るマジシャンはあまり面白くない。これはマジシャンはマジックが出来るだけで、マジックをとってしまうと、意外と芸能界で通用しないレベルのキャラクターだからではなかろうか。マジックファンとして、マジシャンをブラウン管の中で多く見れるのはありがたい事ではあるが、出ているのを見れば見るほど、芸能人(タレント)としては、周りの人よりも格下感を感じてしまう。マジシャンなんだからマジックだけでテレビに出ればいい、と言っても、そうはならんのだから、タレントとしての個性を持ち合わせたマジシャンがブラウン管に登場しないかな、とマジックファンとしては切に願うのであった。

さらに続く。

研究課題は多々あるのだが、その中でもイマイチまとまりきっていない課題のひとつにタネ明かしがある。これは世間的にという事ではなく、私の中での話。

2ちゃんねるで行われているタネ明かし論争は、純粋なタネ明かしの是非を問うものだけではなく、団体間の確執などもあり、かならずしもイエスとうなづける道理に辿り着くことができない。どちらの言い分も、その側面から見れば正しいと押し切ることができる論理であると考えられるからだ。

悪く言えば、どっちもどっち的な答えであり、最終的には個人の好き嫌い(論理的もしくは団体として)にまとまってしまうところだろう。

このサイトのように、マジックについての考察などとYahooで紹介される以上は、このタネ明かしに関しても考察すべきと考えるし、これは引き続きの課題としている。時折、引出しから取り出してたまには眺めつつ、考えておくべきだろう。

私の中にはタネ明かしに対して否定的な側面と肯定的な側面を併せ持っている。しかし、これらはマジシャンとして、という考え方と純粋なマジックファンとして、さらにはマジックをビジネスの一つの可能性と考えている起業家として、という3つの方向から見るとさらに異なった意見になるのでややこしい。

なので、今回から3回にかけて私の持つ3つの視点からマジックに関して取り上げていきたいと思う。どれも私の独断的な考え方であり、それを肯定して欲しいという願いは1ナノメートルもない。むしろ偏った考え方だと認識しているからだ。

マジシャンPsykaとして、暫く前から永遠と続いているテレビ番組におけるタネ明かし番組をどうこうという問題はあまり興味がない。正確にいうとどっちでもいいというのが正直な感想だ。

最大のポイントとして挙げられるのが、テレビとライブの差だ。私はことクロースアップマジックに関してはブラウン管の中での現象はどこまで行ってもライブで起こされる現象には敵わないという原則を持っている。

これはテレビの表現方法が多彩になることによって、より明確になってしまった。疑ってしまえば、テレビの中で起こされている全ての現象は、映像技術という異なった「トリック」ですべて実現させてしまうことができる。すなわち、テレビにおけるマジックはすべて映像技術を介在しないことを前提にしてみなければならない。ここがライブのマジックが強いところだ。

私自身はテレビに出て有名になるという野望がまったくないので、マジックの番組がどんな形であれ増えることは、一般の人たちにマジックの存在を伝えるという意味では非常に有難い。ここのところの営業が増えている要因にも、マジックというものをテレビではなくライブで見たいという要望が多いことが伺い知れる。そして実際にライブで見た観客の感想は「マジックはテレビで見るよりもライブの方が面白い」となるわけだ。

これは落語に似ている。落語もテレビで見るよりもライブの方が面白い。無論、テレビが全ての芸能事の持つ面白さを伝えきれないというテレビがもつそもそもの欠点のせいではあるのだが。歌にしても芝居にしても、これらはライブの方が面白い。映画やドラマはもともとテレビという視点で見ることを前提にして作られているのだから、それはテレビ(もしくは銀幕)でしか成立しないだろう。

マジシャンとして考えるべきポイントは、何を明かしても良くて、何が明かしてはよくないという議論だろう。これはテレビに出るマジシャンが決めるべき境界線だ。結果として、業界や仲間うちから批判されることがあったとしても、そこを跳ね除けわが道を進む覚悟を持っていれば、私は大いにやるべきだと思う。結果としては勝てば官軍なのだから、最終的に負ければボロクソに言われるだけで、そこの覚悟を持って挑戦して欲しい。

マジックが微妙なところは、誰がいつどうやって開発したのかが明確になりずらいところだ。番組で自分のオリジナルだと発表してタネ明かししたら、それは誰々が考えたものだ、と横槍が入る。しかし、発表した側がそれを模倣したのか、それとも本当に自力に開発したかは闇の中である。双方の言い分はどこまでも平行線だろうし、それを確認する術は残念なことにない。

何という会報やレクチャーノートで何年に発表した、と言っても、その本を見ていない人が同じルーティンを思いつく可能性は否定できないのである。それをオリジナルと呼ぶかといえば、考えた人はオリジナルというだろう。あとは、その後の流れから先に考案した人を立てるか立てないかは後から考案したマジシャンとしての力量、資質の問題である。

タネ明かし番組だけでなく、私は本として発行されているマジックのやり方などの解説本も同じと考えている。最終的にはその番組なり、本を編纂をするマジシャンの資質と力量の問題だろう。確信犯的にするならば、最後まで悪者で通すべきであり、結果としてテレビ業界で売れてしまえば、私は勝ちであると考える。その出世したいという貪欲さは大いに進めるべきである。結果として業界からつまはじきにされたとしても、それが目指すものであれば、周りの声などは関係ないのではなかろうか。

私は、人のマジックのタネアカシを推奨しているわけではない。しかし、タネ明かし番組を否定しているわけでもない。マジシャンがマジシャンの尊厳を持ったうえで種明かしをするのであれば、最後のケツをまくるまで、そのマジシャンが責任をもつべきだと考えている。それができるのであれば、あとはブラウン管に登場するマジシャンがただの「タネ明かしをする人」ではなく「マジシャン」として興味深く映るのであれば、それは賞賛に値すると考えている。

ここ数年の自分が見た範囲でいうならば、タネ明かし番組において,マジシャンがマジシャンとして格好良く映ったケースは皆無である。タネ明かしがクローズアップされ、ぶっちゃけ、あんたじゃなくてもいいよ、的な番組の映り方は、マジシャンの力量不足ではなかろうか。そこにテレビ側の意図があったとしても、それをねじまげるだけの魅力とカリスマがマジシャンに備わっていればいいだけである。

しかし、テレビでタネ明かしされると日々の営業でのネタが困るという意見もあったのだが、そんなにレパートリー少ないのですか?と首をかしげたり、逆にそのタネ明かしを利用するルーティンくらいは思いつきそうなのだが、そういう問題じゃないのだろうか?と実はタネアカシ問題におけるマジシャンとしての問題の焦点がじつはわかっていない筆者であった。

この話はまだ続く、予定。

引き続き、技術に関して。

よくマジック関係の人に限らず、それ系(なんじゃそら)と話していると、技術はベースであって、それが全てではない、という話になる。まったくもってご高説のとおりではあるが、技術アリキの演技ではなかろうか、と考える。技術が物凄くても、つまらないマジシャンなんて腐るほどいるだろう。演技とかキャラクターで押し切って、技術が水準以下のマジシャンも腐るほどいるような気がするが。

では水準レベルの技術といは一体なんぞや、という話になるのだが、これは個人レベルの解釈に他ならない。しいていえば「演技上、技術の欠点(失敗)が露呈しないレベル」という表現にとどまるが、これにしたって、どこが線引きなのかは、「まあ、このくらいできれば使えるだろう」という個人のマジシャンごとの判断に委ねられる。

同じ技術でも、マジックの経験者と未経験者では、技術の許容範囲が異なる。なまじ知っているだけに気になる部分は当然多くなるわけだ。ボーリングの試合などを見ていても、投げた瞬間に「ああ、ちょっとズレてますねえ」とか解説がのたまうのだが、結果はストライク。素人目にはズレてるのもわからないし、結果も違わないのだから、いいじゃないかと思ったりもする。

良く私なんかが人の演技を批評する場合は、技術とそうではない部分に分けて評価するケースが多い。演技はいいんだが、技術の未熟さ故に演技のテンポを壊しているなどの表現は、演技自体を否定している訳ではなく、それに伴った技術の練習が足りないので、それをすればもっとまとまった演技になるという事だ。

さて、その技術だが、技術の習得仮定はいくつかの段階を踏んでいると考えられる。

まず、習得だ。

習得とは、必要な技法の動きを人通り行える状態を指すのだろう。これまでを習得のための練習と仮定する。エルムズレイカウントにしても、上手い人のと比べると多少ぎこちないものの、現象は起きている。このレベルへ達するまでを習得としよう。

習得した技術は、今度は普通に使えるような技術にするために反復練習を行う。ここを通常はより美しくするための時間だから、研磨とすべきなのだが、私はあえて維持と仮定しておく。

最後に維持され安定化した技術をさらにワンステップあげるために研究を重ね、より完成形もしくは未来形へと発展させる時期。これを研磨とする。

私は技術の習得レベルは、急激な上方曲線から、停滞時期を越え、再び上昇曲線に入ると考えている。それらの曲線は維持期間においては、一定の割合で技術レベルは落ちていくと思われる。しかし日々の練習を怠らない事によってその落ち幅を0以下に抑えることができると思うのである。

日々の練習というのは、ルーティンの練習、日々の演技(観客を前に)、技術の練習によって支えられる。挙げた3つは後者の方が維持率が高い。

1年365日、毎日決められた演技をするマジシャンがいるとすれば、彼らは日々必要な技術レベルを維持するにとどまるため、曲線は限りなく水平に近い上昇曲線を描くと思われる。

当然、技術の練習をするほうが高い上昇曲線を描くのだが、前者のソレとの差は意識ではないかと考えている。今使用している技術を否定するわけではないが、その技術がその状態が完成した形であると捉えるかどうかで、それはさらなる磨きをかけることができるのではないだろうか。

手が動かせるだけではなく、その技術がどのように考えられ、どのような理論によって支えられているかを考えることで、技術は1つの形で多様性を持ち始める。同じ技術でも組み込まれるルーティンや与えられた演技環境において、その最善の形に、手の形、タイミング、テンポなどが変化できるようになると思っている。

私は、得た技術の研磨は終わりがないものと考えている。それは先達のマジシャンによって考案された技法が、その時代における完成形であり、それが未来永劫そのままであることはマジックにおける技術が「技術」という名称である限り避けられないものであると考えているからだ。

すでにある技術を認めつつ、その延長線上にあるやもしれぬ技術の進化に私たちは否定してはいけないと思う。結果として、今ある技術を極限まで高めることも、私は与えられた現代のマジシャンの責務であると思うし、そうすることで、次代へとつなぐ事ができるのではなかろうか。

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